京都もそろそろ紅葉の季節。
妻は東京の長女のところに行って不在なので、単独で京都市街地の紅葉を観に行ってきました。
京都の紅葉はまだまだ。
今年も京都の紅葉は11月末頃が見ごろのようです。


本日のウオーキング歩数、27,340歩。(うちエクササイズウオーク22,206歩)、消費カロリー1,003kcal、燃焼脂肪量66.8g。


2012年11月10日(土)




東福寺駅を今日のウォークの起点にするので、宇治からJRで東福寺駅へ。
東福寺駅から少し歩き、紅葉の名所である東福寺に到着。
臥雲橋から通天橋を眺めます。



別角度から。
今年の紅葉はきれいそうですが、時期がまだ早すぎます。
でも、あと2週間もすれば結構いい感じになりそうな雰囲気。



明日は雨の予報。
だからなのか天気がいまいち。
残念。



通天橋をズーム。



臥雲橋。
ここ臥雲橋はフリーゾーンにある橋ですが、フリーゾーンから有料ゾーンの通天橋が一番よく見える場所です。



カエデが紅葉している場所は多くの場合こんな感じ。
上部のみが赤くなっています。



東福僧堂。
東福寺が大混雑する紅葉真っ盛りの時期でも、紅葉をゆっくりと観ることができる場所です。
ここの紅葉もまだこれからでした。



人肉を喰らう鬼女・羅刹が棲んでいたとされる羅刹谷(らせつこく)があった付近に到着。
羅刹谷には川が流れており、鬼女は谷の洞窟に棲んでいたとされます。
でも今は川は流れておらず、川の跡と思われる低い場所は道路になっています。
羅刹谷があったと思われる付近の府立高校敷地内の紅葉がきれい。



御壺瀧大神に寄ろうとして散々歩き回りました。
長らく来ていなかったので、場所が分からず30分ほど辺りを行ったり来たり。
やっと御壺瀧大神の隣にある五社大明神に到着。



五社大明神境内。
狐さんの像が金網の中に入れられています。
このような金網設置のパターンは、多くの場合 像がいたずらなどで破壊されるのを防ぐのではなく,、「像が動き出して悪さをするのを防ぐため」と伝わっているが故。
境内のこのキツネ像も同じなんでしょうか。



五社大明神をあとにして、御壺瀧大神へ。
可愛い(^_^.)キツネ像がお出迎え。



御壺瀧大神境内の「洞窟」。
奥行きは2メートルほど。
この洞窟を「羅刹が棲んでいた洞窟」と書いているホームページを多く見かけます。
しかしここは、羅刹が棲んでいた洞窟ではありません。
羅刹谷の位置を示している古文書の鳥瞰図を見ると羅刹谷は東に向かって東福寺の左、つまり東福寺の北側背後にあったとこになります。
対して、御壺瀧大神は東福寺の東側に位置します。
それに、御壺瀧大神がある谷には古くから「毘沙門谷」という名前がついていて羅刹谷という名前ではありません。
位置関係から考えると、かつての羅刹谷は今の府立日吉が丘高校の前の道路あたりだったと考えられます。



内部。



御壺瀧大神をあとにして、次の目的地である今熊野観音(新那智山)を目指します。
閑静な住宅街の中に石地蔵が祠の中に立っておられました。
ひと目見ただけで、地域の人々からとっても大事にされている石地蔵だということが分かりました。



京都一周トレイル東山コースに入り、泉涌寺(せんにゅうじ)に到着。



歩を進めて、紅葉の名所である今熊野観音に到着。
まだ全くと言っていいほど紅葉していませんでしたので、この鳥居橋の下をくぐり東山トレイルを引き続き歩きます。



細い道を通ります。
愛宕山が見えてきました。



紅葉の名所のカエデはまだですが、広葉樹の紅葉はかなり進んでいます。



車道に出ました。
車道をトレイルコースの反対方向に10メートルほど歩き、剣神社へ。



剣神社境内には「撫石」があります。



撫石。
この石を撫でてから体の悪いところを撫でるといいとされています。



東山トレイルに戻り、車道を少し歩くとトレイルコースは山道へ。
山道を国道1号線を目指して歩きます。



過去に京都一周トレイルを全線歩いたことがあります。
懐かしい標識。



キノコがありました。
う。うまそう!
って言うか、私は食用キノコの見分け方が全く分かりません。(^_^.)



少し汗ばむような傾斜の山道を歩き終わり、車道へ。
ここまで来れば、もうすぐに国道1号線に出ます。



国道1号線に到着。
この石碑を見て、かつて京都に大仏があったことを私は知りました。



国道1号線を少しだけ東山方向に戻ります。
歩道脇に交通安全地蔵尊がたっていました。
交通の要衝である国道1号線が故ですね。



国道1号線の歩道を外れ、渋谷街道を10メートルほど通ります。
そして、国道1号をくぐるトンネルへ。



トンネルをくぐると朽ちかけた家がありました。
その家の前に井戸跡が。
こんな場所にかつて井戸があったとは・・・・。



少しだけ山科方向へ歩き、こんな急階段へ。



急なだけでなく、地盤沈下で階段が傾きヒビが入っているところも。



清水寺に到着しフリーゲートから入場します。
夜間拝観中はフリーゲートは夕刻には閉鎖されますが、間に合いほっと一息。



遠くに愛宕山を望む。
実に京都らしい風景。



相変わらず大賑わいの地主(じしゅ)神社へ。



若い女性がいっぱい。



来るたびにバージョンアップしている感がある地主神社。
以前来たときにはこんなものはなかったような気がします。



私にはここが地主神社の「原点」のような気がします。
「おかげ明神」。



ここはかつて丑の刻参りが行われていた場所なのです。



今も残る五寸釘の跡。



どうやら縁結びの功徳は高い模様。









華やかさ溢れる境内の中で、おかげ明神と共に人気がほとんどない一角。
どうやらそれは、功徳のメインが商売繁盛だからの模様。
良縁祈願に来た女性にとっては確かに「儲かりまっか?」「あきまへんわ。」はあまり関係ないかも。



これも以前にはなかったような気がします。



地主神社をあとにして、清水の舞台を右に見ながら階段を下ります。



音羽の滝へ。
音羽山から流れ出るこの水が清らかであることから「清水寺」の名がついたとされています。



流れは三本で、滝を前方に見ながら左から順に「学業成就」「恋愛成就」「延命長寿」のご利益があるとされています。
また同時に三本とも水を飲んでしまうとご利益が無くなってしまうとされています。
また飲むのは一口だけにするといいそうで、ご利益が二口飲むと二分の一に、三口飲むと三分の一になるとされています。
これっておそらく「欲を出すとよくない」との戒めなのでしょうね。
真ん中の可愛い女性が「恋愛成就」を願うのは納得できるのですが、男性の方は左右の人が反対の水を飲む方がよりふさわしいかと・・・・。
でも人それぞれの事情や思いもあるでしょうから、「これでいいのだ」ですよね。



この水が流れてくる音羽山は、以前行った「宇治〜浜大津日帰り往復ウォーク」で通ったことがあります。
ウォークのレポは以下。
http://gogogodzilla.fc2web.com/060430.html



美しい和服姿の女性もいて、境内はとっても華やか。
え?
「美しいのは、和服なのか、それとも和服を着ている女性なのか、どっちだ?」ですって。
それは秘密ですが、いんや〜美しかったです。(#^.^#)



毎年年末に「今年の漢字」を清水寺の貫主さんが書かれることはご存知かと。
漢字1文字を選びそれを、その年の世相を表す字であるとして決定し公表する、日本漢字能力検定協会のキャンペーンですよね。
漢検の受験料の疑惑が浮上してから漢検の評判は地に落ちましたが、「今年の漢字」は今でも清水寺境内でこうして公募されているのです。



清水寺境内にある茶屋。



「舌切茶屋」。
「舌切り雀」の話をを連想してしまいそうですが、決してそうではありません。
不思議な名前ですが、この茶店の名は歴史に由来します。
幕末、安政の大獄で幕府側にとらえられそうになった月光上人は、西郷隆盛を頼って薩摩へ。
しかし薩摩藩が月光上人の入藩を認めなかったため、上人は西郷と共に入水自決を図った末に亡くなります。(西郷は一命を取り留めた)
時を同じくして、月光上人の盟友であった成就院の執事・近藤正慎は、幕府側に捕えられます。
近藤は上人の行方を知ろうとする幕府側に拷問を受けますが、拷問に負けても上人のことを決してしゃべることがないよう自ら舌を噛み切ってしまいます。
舌を噛み切っても生きながらえた近藤は、やがて獄中で自らの頭を壁にぶつけるという壮絶な方法で自らの命を絶ちます。
この茶屋は、その近藤正慎の功績を報いるため、清水寺が遺族たちに生計の心配をさせないことを目的として遺族や家族に境内での茶屋の営業の権利を与えたことに由来します。
そうした歴史の上に、「舌切茶屋」は今現在もここ清水寺に存在し続けているのです。






忠僕茶屋。
月光上人の九州行きには、大槻重助が付き添いました。
大槻重助は月光上人の没後、その遺品を京都に持ち帰りましたが少しして京都で捕えられます。
六角の獄中で、重助は信海上人と再会。
しかし、信海上人はその後江戸伝馬町に移されその牢獄で病死します。
かなりの年月を獄中で過ごした末に釈放された大槻重助は、釈放後に一度故郷に戻ったものの再び清水寺に戻ります。
清水寺に戻った重助は清水寺で茶屋を営みながら、生涯にわたり月照・信海両上人のお墓を守り続けました。
この茶屋も上記のような経緯と理由があるゆえ、今でも清水境内で大槻重助の後継ぎが茶店を営んでいるのです。
その信海上人が没した牢獄があった伝馬町。
そこに私は、2011年の「東京怪異ゾーン駆け足探訪」でアップしたように偶然ですが訪れたことがあります。
東京怪異ゾーン駆け足探訪レポは以下のアドレス。
http://www13.atpages.jp/godzillagogo/110824.html



まだほとんどのカエデは紅葉していませんが、一部こうして紅葉した場所があります。



同じ清水寺の一角とは思えない閑静な場所。
観光客がほとんど訪れない、山門を出た北側付近です。



「清水寺には石地蔵が少ない。」「清水寺には石地蔵がない。」なんて記述のあるHPも結構多くありますが、決してそんなことはありません。
山門を出たフリーゾーンの北側には、このように実に多数の石地蔵があるのです。



今では観光客であふれかえる清水寺ですが、昔はこの地一帯は広大な葬送の地でした。
多くの石地蔵も、そうしたことと無関係ではないはず。
そんなこともありここ清水寺には、不思議な話や奇怪な話も多く伝わります。
牛若丸と弁慶が出合ったのは五条の橋(今の松原橋)ではなく、ここ清水寺だったという説さえあります。






大きな地蔵様の足元に、実に小さい石地蔵が。



小さい石地蔵をズーム。
尊い顔をされておられます。
「おそらく子を亡くした親が彫ったんだろうなあ・・・・」と考えて小さな小さな地蔵尊を眺めると、切なくて胸が締め付けられる思いがします。
今も昔も子を亡くした親の悲しみは、古今東西を問いません。
もちろん、子を亡くしながらも石地蔵を造ることなどはおろか葬ることさえできるはずもなかった当時の圧倒的多数の庶民の思いも、この石地蔵から感じることができます。



陽がずいぶん傾いてきました。
これも清水寺関係の建物です。






変わった雲が見えています。
レンズ雲という名前だったでしょうか。



帰路につく前に首振地蔵」へお参り。
この地蔵は不思議なことに首が稼働式になっていてグルグルと回転します。



首振地蔵の説明。
説明にはありませんが、地蔵の首を願い事がある方向に向けて念じると願いがかないとされています。
家族や子ども達が住む方向に地蔵の頭を向けて、無病息災を念じました。
ただ・・・・・。
方角が正確に合っていたかどうかがやや気がかり。
地蔵の近くに方位盤でも置いてあれば嬉しいんですが。



清水の坂を下ります。
以前来た際には「ここは中国?」と強く感じるほど中国語が激しく飛び交っていたんですが、この日はそんなことはありませんでした。
尖閣問題があり、中国からの観光客が減っていることがとてもよく分かります。
最近よく「中国+ワン」という言葉を聞きますが、本当にその通りだと思います。
中国に過剰に依拠する愚は、今回の尖閣問題をきっかけに見直すべきでしょうね。



土産物店の店先にあった巨大キティちゃん。
さて、帰ろうっと!
今から京都駅まで歩きます。




京都の紅葉はまだまだでした。
でも来週には強烈な寒波が日本にやって来るとのことなので、観光客の皆さんが期待する京都の紅葉は一気に進むことでしょうね。



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