秋晴れのこの日。
無職ではないけれど、昼間に5時間以上の空き時間がある生活パターンを最大限活用し、中距離ウォークを行いました。
ウォークでは、大きな被害が出た京都府南部の水害の跡地も訪問。
水の脅威を改めて実感したウォークになりました。


本日のウオーキング歩数、36,532歩。(うちエクササイズウオーク26,815歩)、消費カロリー1,229kcal、脂肪燃焼量78.7g。
(ウォーク距離には、2往復の通勤距離と、そして早朝のランニング距離を含む)。



2012年10月5日(金)




朝の仕事を終え、帰宅途中。
通勤経路で通る神社へ
小さな橋を眺めます。


境内にある竜の手水。



境内には「藻隠池」と呼ばれる池が、かつてありました。
説明では「歴史に由来する」と書かれていますが、その由来するところは「真田幸村が藻隠池に隠れた」ということのはず。
今では小さな神社ですが、古い歴史がある場所なのです。



再現された藻隠池。
1年ほど前に、何もない平坦な場所に井戸屋さんが井戸を掘り始め、そして井戸の掘削後に造園屋さんが池を造り、そして藻隠池は再現を果たしました。
でも池の完成後も漏水があり、造園屋さんが今でもたびたび来て漏水の修理をしています。



藻隠池全景。



藻隠池全景U。



境内にある外宮。



内宮。



内宮下部の建物



帰宅し、ウォークに出発。
まずは、肩切り地蔵を目指します。
肩切り地蔵は、折居台という住宅地の最上部にある鉄塔の近くにあります。
その鉄塔を望む。
鉄塔が数多くあれば見つけにくいのですが、折居台上部の鉄塔はたったひとつだけです。



鉄塔が近くに見えてきました。



鉄塔の下に到着。
肩切り地蔵へは、この突き当りを左に進みます。



鉄塔を見上げます。
かなりの高さ。



住宅街の裏のこんな道を進んでいきます。



肩切り地蔵に到着。
寺侍の不信心を戒める不思議な話が伝わる地蔵です。



肩切り地蔵の背後。
刀傷らしい白い線が見えますが、あまりはっきりしません。



地蔵の前面に回り、涎掛けをめくりました。
はっきりとした線が見えます。
「肩切り地蔵」に関しては、ネットで検索していただくといいかと。
京都新聞のオンライン記事「ふるさと昔語り」などが、この肩切り地蔵のことをとても分かり易く説明しています。



肩切り地蔵をあとにして、白川の里へ向かいます。
少し引き返し再び鉄塔下に至った後、墓地横の道へ。
こんな表示がありました。
これを読んで、以前から感じていた疑問を思い出しました。
道路交通法で定義する「軽車両」には自転車やリヤカーも含まれています。
軽車両といえども車両なので、飲酒運転は厳禁。
でも実際のことを考えると、今でもリヤカーは西成などで健在。
新世界あたりを一杯機嫌でリアカーを引いて歩いていると、道路交通法の飲酒「運転」が適用されるということなんでしょうか。



白川の里を目指して下り始めます。



がけ崩れの跡。
2012年8月13日の夕刻から14日の朝方にかけ、近畿地方には強烈な雨が降りました。
京滋バイパスでトラックが水没する姿が、テレビで何度も放映されたりもしました。
その大雨で宇治市でも大きな被害が出ましたが、このがけ崩れもその時の被災跡です。



道沿いの石地蔵。



白川の里に到着。
ここにも水害の傷跡がありました。



白川の里に出て、道を少しだけ上ります。
私より1学年下だったkちゃんの実家前へ。
ほっぺたが赤く小柄でとっても可愛いかったkちゃんは、今頃どうしているんだろう・・・・・。



更に歩きます。
惣門をくぐり、白山神社を目指します。



金色院跡へ到着。
金色院は、藤原頼道の娘である寛子(かんし)が1102年に建立しました。



絵地図で、これからの行動を確認します。



のどかな白川の里。
金色院の本堂それに数多くの堂塔や坊舎があった頃の賑わいは、当然ながら今はもう全く感じることができません。



クロアゲハが食事中。



ズーム。
カメラを持って30cmくらいに近づいても、蝶は逃げようとしませんでした。
食事に一生懸命からなのか、はたまた警戒心が薄いのか・・・・。
いずれにしても、のどかな里での楽しい経験でした。



あちこちにコスモスの花が咲き誇っています。



コスモスの花をズーム。



白山神社へ。



神社の説明。



苔むした橋。



急階段を上ります。
神社はバリアフリーでないところがほとんど。
ここも、歩きにくいお年寄りや体の不自由な人は参拝が困難。



階段を上がり切りました。



説明板が。



金色院の鎮守社となった白山神社。
その拝殿前には砲弾が鎮座。



参拝を終え、境内からもみじ谷へ直接行ける道を通りもみじ谷へ。
谷筋には、先日の水害の爪痕が生々しく残っています。



今現在の風景を見ると、水害時の水量がいまいち分かりません。
しかし、岩の白い部分が水で洗われた跡であることを考えると、増水の様子が少しは想像できるかと。




もみじ谷は東海自然歩道の一部。
その遊歩道が、完全に崩落している場所も。



崩落した部分には木橋が架かっていたようです。
その木橋は足元に転げ落ちていました。



もみじ谷を歩き終わりました。
フェンスがあったのでフェンスの横の隙間を通り過ぎてから振り返ると、「通行止」の文字が。
どうやらもみじ谷は通行止めのようです。
もみじ谷ですれ違った二人連れから「この先は通れますか?」と尋ねられましたが、そう尋ねられた訳が分かりました。



階段を下り、宇治川ラインの下をくぐります。



また、もみじ谷通行止めの看板とフェンスがありました。
「白川側にはこんな表示がなかったのに?!」と不思議に思いましたが、よくよく考えると私はもみじ谷に白山神社境内から直接入りました。
境内からではなく通常の道を通ると、あるいは「通行止」の表示があったのかもしれません。



宇治川左岸へ。
左岸には、川岸にせり出すような形でこんな歩道が整備されていました。
ありがたいといえばありがたいのですが、車がほとんど通らない道なのでこんな物をあえて造る必要はないように思いますがねえ・・・・。



車も人もあまり通らない道の歩道整備。
一体誰が、そんな歩道建設の計画を立てるんでしょうか・・・・。
自治体にお金が有り余っていたり、あるいは住民の強い要望があっての工事なら話は別。
でも実際のところ、どうなんでしょうか。
ちなみに。
人が一人立っているのが写っていますが、あの人は工事関係の人。
つまり、この新しく整備された歩道を今現在利用している通行人は私ただ一人ということになります。
まあ詳細は全く何も知らない私なので、これくらいにしておきますが。



吊り橋近く。
何やら取水口がありました。
以前にはこんな物はなかったような?
でもずいぶん古い物のようなので、おそらく以前からあった物なんでしょうね。
今までこんな取水口の存在は全く知りませんでした。



吊り橋へ。
吊り橋は一般的には「天ヶ瀬吊り橋」と呼ばれていますが、正式名称は「天ヶ瀬橋」。



吊り橋を渡ります。
私が一人歩くだけで、橋が随分と揺れます。
体重を減らさなければ。(+_+)



吊り橋の上から取水口を再び眺めます。
あの水は一体どこに流れていくんだろう・・・。。



吊り橋を渡り終わり宇治川右岸へ。
上流へ向かおうとすると、こんなゲートが。
車は通れないようですが、ジョッギングの人やハイカーが次々にやって来ます。
どうやら、人は通れるようです。




少し歩いて、通行止めの原因が分かりました。
道路が数十メートルにわたって崩落していました。



道路幅の4分の1ほどが川に崩落。
素人目にもその復旧の困難さが分かります。



まるで飴のようにグニャリと曲がったガードレール。



のり面がなく、ほぼ垂直に切り立っていた道路下。
そこがこのように崩れたので崩れた下には全く何もなく、ただ川の水が流れているだけ。



道路が崩落している上を眺めます。
上にもがけ崩れの痕があるので、この上から土石流のようなものが落下してきて道路を破壊し、そして一気に宇治川に流れ込んだんでしょうね。



天ヶ瀬ダムの手前で左折し、水害で大きな被害を受けた志津川方面へ。
川岸の岩に畳が引っ掛かっている様子が目に飛び込んできました。
8月13日の夕刻から8月14日の朝方にかけて激しく降り続いた雨。
その雨で大きな水害が発生し、志津川の民家が一軒丸ごと流され、お二人が亡くなられました。
畳はその流された民家のものなのかもしれません。



志津川の旧道へ。
右に行けば新しい道ですが、志津川の集落にはこの狭い旧道の方が早く行けるのです。



また畳を見つけました。
被災し流出した民家のものであることは、ほぼ間違いありません。



流れ出る寸前まで、人の用に供していたであろう畳。
人が一番安心できるはずの家にいたのに、その家ごと、増水して濁流が激しく渦巻く宇治川まで流された犠牲者の方の恐怖と苦痛を考えると胸が痛みます。
お亡くなりになったお二人のご冥福を念じ、眼を閉じて両手を静かに合わせました。
合掌。



水の力は強烈。
ガードレールなどあっという間に流し去ってしまったんでしょう。
被災直後、この部分には小さな流木や木の根が堆積していました。
激しい水流のため大木などは全て流れ去り、水流が減少してからの堆積物だと推察されます。



少し上流へ。
洪水時の水面はガードレールよりも上だったはず。
大きく重い物が流されてガードレールをこすったような跡が残っていました。
流失した民家もこの上を流れて行ったのかもしれません。
雷鳴が一晩中鳴り響き、人の声が聞き取れないほどの雨が続く夜を人々が過ごした9月14日早朝(午前4時〜5時頃)、流木が橋にひっかり水の流れが変わって住宅方向に押し寄せました。
そして押し寄せた水が石造堤防を破壊し一気に住宅街に流入。
流れ込んだ濁流が、一番低地にあった民家を基礎から破壊し流し去ってしまったのです。



川の中に農機具が引っかかった状態で転がっていました。



建物の土台らしきものだけが残っている場所も。



河原のそこかしこに転がる生活臭のする物。
濁流がいかに強烈であったかを如実に物語っています。



原形をとどめないほど歪んだ車。
水害の被災車両であることは一目瞭然。
14日の早朝には民家が流失するほどの被害が出たにもかかわらず、ここ志津川地区に避難勧告が出されたのは実に民家流失のおよそ9時間も経った14日の午後2時10分のこと。



水の怖さを心から再認識しました。



重くなった心で歩を進め、今はもう存在しない天ヶ瀬レジャーセンター跡に到着。
跡地には、「五和の園」という老人保健施設が建っています。
高校生の時、私はその天ヶ瀬レジャーセンターでアルバイトをしていました。
当時そのレジャーセンターにはサルがいて、私は毎日そのサルと喧嘩をしていました。
サルは次第に知恵をつけ、ついには私を油断させておいて私が無警戒にサルに近寄りサルの腕の射程に入ると、急にオリの中から手を伸ばす作戦も。
時にはそんなサルの作戦で、私のサングラスがサルに奪われたこともありました。
当然ながら私は反撃しましたが、経営者から「サルをいじめたらだめ!」と叱られたものです。
ほろ苦く(オイオイ)、そして今となっては懐かしい思い出です。



橋の名前。
そのレジャーセンターは、橋の名前の人が経営していました。
当時のことを調べようとネットで「天ヶ瀬レジャーセンター」で検索しても、私のレポ以外には何もヒットしません。
今はもう幻と化した感がある天ヶ瀬レジャーセンターなのです。



川沿いに、葉がとってもきれいな木がありました。



民家の庭先で育つほおづきの実。



松葉ボタンでしょうか。
きれいな花が。



人々の心のよりどころになっている愛宕山常夜灯。



志津川の美しい家並み。
この辺りはさほど大きな被害を受けなかった模様。



この道を進んでいくと、ハヤブサの営巣地を経由して池尾に至ります。
かつて僻地に勤務していた私の通勤路でもありました。
その道を通っていた時、野生のシカに遭遇したことが何度もありました。



志津川の集落を離れ山道へ。
大吉山方面を目指します。



学生自治会などの旗竿部隊が自己防衛で取っていた戦法「槍ぶすま隊型」を思い出す風景。
あの日は遠くなりにけり・・・・・。(遠い眼)
そういえば思い出しました。
先日の水害では八幡市の男山もかなりの被害を受けましたが、男山の竹伐採&環境改善を行っている八幡のボランティア団体が竹の伐採をした場所は、驚いたことに全く被害が出なかったそうです。
山や竹藪は放置せず、きちんと管理しなければいけないということですよね。



大きな鉄塔。
写真を写しそれ見せて「これが東京タワーだと思う人?」なんて尋ねると、「は〜い」と手を挙げる子どももいるかも。



「確か池があったはず」と思って歩いていると、やはり池がありました。
この池は私は嫌いです。
危険そうだし、それより何より虫やおかしな生物がいっぱいいそうに思えるから。



分岐点。
笠取方面へは、もうすぐ滋賀県の石山にある宇治発電所の取水口から宇治発電所までを歩く計画がありますので、その時に行きます。
仏徳山(大吉山)方向へ。



こんな所にも水害の爪痕が。
山の斜面が崩落して多くの大木が転がっていました。
木は切られているので、復旧というか後始末はある程度進んでいるようです。



再び分岐点。



この道を左に上っていくと、朝日山観音。
私は右に下って行きます。



谷筋がかなり荒れています。
水害によるもののようです。
山の上から下に水を引いているパイプも、ばらばらに砕け散っていました。



あと少しで興聖寺(こうしょうじ)。
水害の復旧工事が行われていました。



興聖寺に到着。



興聖寺は素晴らしい寺院です。



鐘楼の向こうに屋根の一部が見えている本堂は伏見城の遺構と伝わり、「血天井」があることでもよく知られています。



唐風の山門。



興聖寺をあとに。



興聖寺の参道である琴坂を、宇治川方面へ下ります。



緑美しいカエデ。
あと一か月もすれば鮮やかに紅葉することでしょう。



ロマンチックな琴坂。



下り終わった琴坂を振り返って眺めます。



美しい宇治川の流れが見えています。
人々に時には災いをもたらす水ですが、同時に人々に大きな恵みも与えてくれます。



興聖寺の入口。
琴坂は車で上がれるので、お年寄りや足の不自由な方でもお参りが可能。
唐風の山門近くにはフリーの大きな駐車場もあります。



悠久の宇治川の流れを見ながら、宇治川右岸を下流に向かって進みます。



大正3年10月に設置された宇治発電所の竣工記念碑。
観流橋の東詰めにあります。
1.水路総長 6137間
     隧道 5070間
     暗渠  440間
     開渠  627間
1.最長隧道 第1号 1357間
         第7号 1658間
1.使用水量 1秒時2000立方尺
1.有効落差 204尺
1.機械容量 48000馬力
1.送電線路 大阪線 22哩    京都線  8哩
1.工事費総額 1600万圓
1.工事着手 明治41年12月
1.工事竣功 大正2年6月


  大正3年10月
  宇治川電気株式会社

そう刻まれてあります。



石碑を見るのにちょっと油断したら、ジャージに大量の「くっつき虫」が。
グ、グオラ〜。(-"-)



宇治発電所からの流れ。



観流橋を渡ります。
橋の下の流れは、石山制水門からはるばる流れて来て、そして宇治発電所で電気を作る仕事を終えたいわば「偉大?」な水なのです。



今までは気にも留めなかったこんな風景ですが、水害の被災地を歩き終わった今は違います。
この石積みが、宇治川の水害から人々の生活を守るものだと分かります。



これを見るとよく分かりますが、石積みの上部より道路が下になっています。
このことによって、仮に道路より宇治川の水面が高くなった時でも、人々はこの道路を通って安全な場所に避難する時間的余裕を得ることができるのでしょう。



朝日焼の窯元だった場所。
今では宗教法人のもの。
この建物は、窯元だった時には情緒ある茅葺だったんです。
そうそう。
窯元は私の同級生が跡を継いだんですが、その同級生は今頃どうしているのだろう。



朝日焼窯元は風情ある場所だったんですがねえ・・・・・。



歩行者専用橋である朝霧橋が見えてきました。



朝霧橋の下から対岸を眺めます。



朝霧橋の東詰にある匂宮と浮舟の像。



宇治神社の鳥居。



朝霧橋へ。



朝霧橋の上から北方向を望むと、愛宕山の姿が。



朝霧橋の上には行灯が。
夜間には行灯が点灯するんでしょうね。



朝霧橋を渡り終え塔の島へ。
塔の島から対岸の観流橋を眺めます。



観流橋をズーム。



塔の島から喜撰橋を渡り、再び宇治川左岸へ渡りました。
宇治川左岸から、塔の島の五重塔を見ます。



縣神社前へ。



深夜の奇祭で知られる縣祭りで活躍する梵天。
「突っ込め〜」の掛け声で宮入りします。



「縣」という言葉の説明。



神社前通過。
この少し先で、農家の人が軽トラックの荷台に積んだ農作物を移動販売中でした。
そこで土産として、キュウリや万願寺唐辛子、それに茄子を買いました。



帰宅して少し遅い昼食。
昼食を終え少し休憩してから午後の勤務に。
バス車内から、頭を下げる稲穂を眺めます。
今年も稲の作柄はまずまずのようで何より。



同じくバス車内から、偶然行われていた消防の救助訓練の様子を眺めます。
朝から水害の被災地を歩いた関係もあり、訓練がとっても心強く感じられました。




久々の仕事の合間の中距離ウォークは充実していました。
防災のため、体を鍛える必要性も改めて痛感。
暑さゆえ中断していた早朝ランニングを再開したことに加え、最近は上半身の筋力をつけるため2往復の通勤ウォークのうち最低でも1回は2kgのダンベルを使いながら歩いています。
でも今日被災地を歩いてみて、「もっともっと鍛えねば」と強く感じました。

それにしても。
水の怖さと威力、そして水の恵み。
どちらも水の真の姿。
気象が荒くなりつつある今、水の怖さを減らす努力が今後益々必要。



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