今日は、仙台訪問の五日目(最終日)。
楽しかった仙台の旅が終わるのは残念ですが、その分だけ目いっぱい仙台での時間を楽しみました。

本日のウオーキング歩数、約14,691歩。(うちエクササイズウオーク9,052歩)、消費カロリー402kcal、燃焼脂肪量22.3g。

2012年8月8日(火)




仙台訪問での最終宿泊地は仙台駅から徒歩数分の場所。
朝、ゆっくりと起きて朝食。
やってきてくれた次男とホテルで合流し仙台駅前へ。



最終日も、次男が「るーぷる仙台」の一日乗車券を買ってくれました。
その「るーぷる仙台」に乗り、土井晩翠が晩年を過ごした「晩翠草堂」へ。
土井晩翠は仙台が生んだ代表的詩人で、名曲『荒城の月』の作詞者であり英文学者としても知られています。



土井晩翠に関しての説明。
姓の「土井」は元々「つちい」だったそうですが、61歳の時に「どい」と改めています。
読み方を間違えられることが多かったからかもしれません。



晩翠草堂の建物は、その名も「晩翠通り」と仙台の人々の晩翠を想う心を表しているかのような名前の通りに面して建っています。



1945年の仙台大空襲で、晩翠は邸宅と三万冊にも及ぶ蔵書を全て失ってしまいました。
そのことに心を痛めた、晩翠が仙台二高で教鞭をとっていた時の教え子や市民達が、晩翠を励まそうと1949年に旧邸跡この建物を建てます。
「お粗末な建物ですが」との意味で「草堂」と名付けられたそうです。



建物内へ。
管理している人はいますが、入場はフリーです。



建物内は晩翠が生活していた当時そのままで保存されています。



晩年の3年余りをここで過ごした晩翠は、みんなに惜しまれながら80歳で天国に召されます。



晩翠の様々な資料を見ることができます。



妻に先立たれた晩翠は晩年に邸宅や蔵書を失うという不幸に遭いますが、多くの人々の好意で造られたここ晩翠草堂での暮らしはきっと安らかなものだったことでしょうね。



名曲『荒城の月』の歌詞が。



この歌を全く知らない人は、おそらくいないかと。



晩翠が最後に使っていたベッド。



庭園。
晩翠も毎日毎日眺めていたことでしょう。



詩人白鳥省吾が書いた「詩聖逝く」の額が掲げられていました。



晩翠著の「那破翁」。
「那破翁」とは絵を見れば分かるかもしれませんが、ナポレオンのことです。



井戸の上には当時使われていた者と思われる金属製の装置が置かれていました。



左側のヒイラギモクセイの木は、空襲で焼かれてもまた蘇ったそうです。



晩翠草堂をあとにして、再び「るーぷる仙台」に乗り仙台城跡へ。
以前は城跡の奥までバスが乗り入れていたのですが、大震災で城跡内の様々な場所が被害を受けており現在は道路でバス停を下り徒歩で城跡に向かう必要があります。
石垣は文化財なので修復は簡単ではなく、石垣の石を一つひとつ丁寧に手作業で元に戻していくことになるので、完全な修復までには数年かかるようです。



大手門があったあたり。
ここも被災跡を修復したのか、塗り跡がとっても新しいものでした。



城跡の石垣。
この石垣は、過去の地震で何回も被害を受けてきました。



石垣は昨年の大震災でも大きな被害を受けてしまいました。



城跡の標高が最も高い最高部に着きました。
観光ボランティアさんがいましたので、お願いして一緒に回ってもらうことにしました。
ボランティアさんの説明を聞きながら石垣の説明を読みます。
ボランティアさんの話によると、大きな地震が多い場所に立地する仙台城の歴史はある意味で地震との闘いの歴史でもあったそうです。



石と石の境目が、上下の石で重ならないような工夫がなされています。
石垣の強度を高めるためです。



この石垣は、ひとつ上の写真の石垣と比べると、いかにもひ弱そうな石垣。
でも、ボランティアさんの説明ではこの石垣の方が圧倒的に強度が上だそうです。
それは、大きな石と石の間の小さな石が免震の役割を担うからだそうです。



何やら舞台が設置されていました。
何でもここで間もなく、奥州・仙台おもてなし集団「伊達武将隊」による歓迎イベントが開かれるとか。



伊達正宗像。



この像を見ると「仙台に来ているんだ」という思いが強くなります。



ズーム。
光線具合が悪く顔がよく見えませんが、ボランティアさんの話によると像は「独眼流」でなく両眼が開いているとか。
それは、正宗が「親から五体満足に産んでもらった体なのに、幼少時の熱病で片目を失ったことは残念至極。親にも申し訳ない。私の没後に像や似顔を作る時には必ず両眼を入れるように。」との遺言によるものだとか。
仙台市博物館には政宗の肖像画がありますが、これも両眼が開いているそうです。



仙台城跡から見る仙台市街地。



おや、綺麗な花が・・・・。



ズーム。



奥州・仙台おもてなし集団「伊達武将隊」による歓迎イベントが始まりました。
観光ボランティアさんとお別れ。
心からのお礼を述べて別れました。



「400年の時空を超え、いま仙台の醍醐味を人々に伝える!」とのうたい文句通り、迫力があります。



片岡小十郎が大奮戦。



片倉喜多。
伊達正宗の乳母で、片倉小十郎・茂庭綱元の姉であり、文武両道に通じ兵書を好んだ才女。
喜多は乳母として政宗公の養育にあたり、人格形成に強い影響を与えました。



片岡小十郎は政宗公より十歳年上で、政宗公が幼きころより守役を、そして長きにわたり伊達の軍師を務めました。



えい!や〜っ!
ボリュームを上げた高性能スピーカーから迫力ある掛け声が響き渡ります。
政宗公に対して剣術指南したといわれるほどの剣術の腕前があり、加えて智略に優れ、政宗公の命運を左右する合戦には「必ずその姿あり。」と彼は言われました。



豊臣秀吉から「ぜひとも直臣に。」と望まれましたが、それを断り政宗公への忠義を貫き通しました。
偉いぞ!片岡小十郎。



時には激しいアクションを交えての歓迎イベントが終わりました。



一番右の頭を下げている人物は、足軽の風太。



一番右は、隠密の空(そら)。



ポーズ。
この後、家族ごとに記念写真を写すことができました。
私達家族3人も、伊達武将隊と共に記念の写真を写せました。



騎馬像の土台には、こんなものがありました。



懸造跡。
懸造は、切り立って部分に造られた見晴らしのよい舞台のような建築物。
京都の清水寺の「清水の舞台」のようなものです。



イベントが終わったので、次は隣接する宮城県護国神社へ。
宮城県護国神社は仙台城の本丸跡に建っています。



境内には七夕飾りが。



仙台駅まで戻ってきました。
仙台駅ビル3階にある「絆」でお買いもの。
店舗の利益は全額、被災地復興のための義援金として被災地へ送られます。
お土産をしっかりと買いこみました。



仙台駅周辺をもう一度散策。
そろそろ仙台空港に行かなくてはなりません。



仙台空港アクセス線に乗り仙台空港へ。
セスナ機が展示されていました。
食事を摂ることに。
食事のメニューは蕎麦にしました。



空港内のレストランで今回の仙台訪問では最後になる食事を摂り終わり、仙台空港に別れを告げます。
それにしても仙台空港、よくぞここまで復興したものです。
5日間つきっきりで私達を世話をしてくれた次男とも、しばしのお別れ。
次男よありがとう!達者でな。



帰路に乗った飛行機は、往路と同じくボーイング737型機。
往路では取れなかった窓際の席を次男が取っていてくれましたので、機外の様子が窓からとっても見えます。
繁忙期なので飛行機の切符を取ること一つとっても大変だったはず。
改めて次男に感謝。
飛行時間が1時間と短く、窓の下に見える海上空港を「羽田空港かな?」と思っているとあっという間に着陸態勢に。
見えていた空港は羽田ではなく、中部国際空港だったようです。



着陸態勢に入ってから5分ほどで、民家の屋根が見えるほどの高度に。



生駒山など見おぼえがあるものが次々に見えてきます。



ほどなく着陸。
着離陸した瞬間から、またいつもの生活が始まります。
素晴らしい時間を持たせてくれた次男、そして様々な形で今回の旅を支援してくれた長男と長女。
本当にありがとう!




新婚旅行以来になる長期旅行。
そしてゆっくりと行きたかった仙台についに行くことができました。
計画を立て、下見をし、そして全ての予算を出してくれた次男に心から感謝。
旅行直前には「遠足のしおり」まで作成してくれましたので、旅には全く不安はありませんでした。

思えば、年子3人ということでそれなりに苦労もあった私達夫婦。
でも全員元気に、そしてとってもいい子に育ってくれたことが本当に嬉しい限り。
年子3人の子育てを完全に終わったことを再確認する旅にもなりました。

結婚直後で経済的に厳しい長男と長女も、餞別を出してくれたり、あるいは「楽しんで」との応援メールをくれたり、私達の今回の旅の協力をしてくれました。

「今度のことは本当に嬉しかった。子ども達に苦労をかけないよう私達夫婦は健康に気をつけながら、これからも過ごしていこう。」と話しながら私達夫婦は今回の旅を終えました。
本当にいい旅になりました。



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