来月は用事で東京に行きます。
そのための新幹線の切符を購入しに、仕事の合間の時間を利用して京都市街地へ。
ついでに、「京都の怪異・不思議ゾーン」を追うウォークを行いました。

訪問した場所は、「班女塚」「六角堂」「鬼殿(おにどの)」「河原院」など。

本日のウオーキング歩数、29,681歩。(うちエクササイズウオーク24,611歩)、消費カロリー1,125kcal、燃焼脂肪重量67.8g。



2012年2月22日(水)




昨年3月末で定年退職し、4月からは日給月給制の仕事に就きました。
4月から就いた仕事の一日の勤務時間は約4時間で、4時間のうち実働は2時間であとの2時間は待機時間。
4時間の勤務は2つに分かれ、早朝に2時間と午後に2時間の勤務。
早朝と午後の仕事の合間が5時間以上あり、かなり自由がききます。
その時間を使って今日はトレーニングウォーク。
京都駅に着き、京都タワーを眺めます。



烏丸(からすま)通りを北上。
「日本最初の電車」を観ます。
日本最初の旅客鉄道が走った区間は品川〜横浜間ですが、それは蒸気機関車の話。
日本最初の電車は、実は京都で走り始めたのです。
これがその日本で最初に走り始めた電車です。



屋内保存のため保存状態は極めて良好。
平安神宮御苑にもこれと同型で色違いの電車がありますが、平安神宮のものと比べるとこちらの方が圧倒的に綺麗です。



日本最初の電車が走ったのは京都。
それもまた「知られざる京都」の一つの顔と言えるでしょうね。



電車の説明。



金券ショップで新幹線の切符を購入。
枚数が多いので数十万円の買い物になりました。
切符を落とさないように気をつけなければ。^_^;
切符購入後、金券ショップ近くにある繁盛神社へ。



繁昌神社は、かつて班女神社あるいは半女神社とも称していました。
班女にちなんだと思われますがで、この辺りの地名は「繁昌町」。



繁昌宮本殿。



神社ゆかりの班女塚に関しては、「宇治拾遺物語」の「長門前司の娘、葬送のとき本の処に帰る事」と題した話に詳しく書かれています。
「今は昔 長門前司といふける人の 女二人ありけるが 妹は人の妻にてありける。
 妹はいとわかくて 宮仕へぞしけるが 後は家に居たりけり。
 わざとありつきたる男もなくて・・・・」という文で続きます。
そして拾遺物語に記されている場所がまさにここ高辻室町なのです。
興味ある方は、ネットで「班女塚」と「宇治拾遺物語」の二つの言葉で検索してみてください。
観光京都とはまた違った京都の顔が見えてくるはず。



繁昌神社の説明。



班女塚へ。



班女塚の説明。



班女塚にある巨石。



塚に関しては「宇治拾遺物語」の「長門前司の娘、葬送のとき本の処に帰る事」と題した話に詳しく書かれています。
「今は昔 長門前司といふける人の 女二人ありけるが 妹は人の妻にてありける。妹はいとわかくて 宮仕へぞしけるが 後は家に居たりけり。 わざとありつきたる男もなくて・・・・」という文で続きます。
要約すると。
ここに住んでいた長門前司の二人の娘のうち、下の娘が未婚のまま病死しました。
妹の遺体を墓地に運ぶと、なぜか墓地に着いてみると棺の中は空っぽ。
家人は「不思議なことがあるものだ。」と首をかしげながら帰宅すると遺体は家の戸口に戻っていました。
何度も何度も葬送するのですが、その都度家に遺体が戻ってしまいます。
人々は、「娘は死んでもここにいたいのだろう。」と考え、家の側に塚と祠をつくって祀ったということですが、それがこの塚なのです。
この班女塚に未婚の女性が近づく、ましてやこの石に触るなんてのは絶対にタブー、そんな雰囲気が今でも残っています。



班女塚の横にある繁昌神社の倉庫。
かつては、独身のまま亡くなった娘さんの霊を慰めるため全裸の男たちが神輿を担いでいたものですが、今はもうそんなことは行われていません。
あるいは、この倉庫にはその時の神輿が保存されているのかもしれません。



煉瓦色の石の上に四角い石が乗っているものはどうやら織部灯篭(キリシタン灯篭)のようですが、笠の代わりによく分からない塔石のようなものが乗っています。



高校生が校外学習の一環で班女塚へ来ていました。
もちろん「未婚の女性が塚に近づくと生涯結婚できない。」なんてことはないでしょうから、これでいいのです。
都市のど真ん中にある不思議どころを解説する先生の説明に、高校生は驚きの声を上げながら聴き入っていました。



班女塚をあとにして与謝蕪村の邸宅跡前へ。






古い歴史がある京都には様々な建物が残っています。
これもそんな建物のうちの一つ。



六角堂に到着。
あまり話題にはされませんが、市街地のど真ん中にある六角堂には不思議な話が伝わります。
御堂前の人呼んで「地ずれの柳」という柳の木にまつわる話ですが、他にもいくつ不思議な話が伝わります。



六角堂境内の「へそ石」。



「へそ石」をズーム。



「へそ石」の説明。



六角堂は、紫雲山頂法寺と言います。



境内の「わらべ地蔵」。



「わらべ地蔵」の説明。



境内には様々なわらべ地蔵がありますが、これが一番かわいいです。



ズーム。
何だか、以前「テレビで放映されていた「日本昔話」に出てくるような可愛いお地蔵さま。



六角堂を上から見るためにシースルーエレベータに乗ろうとしました。
でもエレベーターのスイッチを何度押しても、3基あるエレベータのシースルーでないエレベータしか扉をあけてくれません。
他に乗客が無いからです。
仕方がないのでシースルーエレベータを諦め、普通のエレベータで8階へ。
8階は改装工事中でしたが、窓から六角堂境内の全景を観ることができました。
シースルーエレベータより境内全景がよく見える場所があることに、今日初めて気づきました。



なぜ六角堂と呼ばれるのかが、このお堂の屋根を見るとすぐに分かります。



六角堂をあとに。
烏丸通りから六角堂を眺めます。
ガラスに六角堂が写っているように見えますが、そうではありません。
ガラスの向こうに六角堂があります。
ビル建設の際に、町衆の訴えで烏丸通りから六角堂が見えるように配慮された結果なのです。



烏丸通り沿いの建物。
現役で銀行として使われている建物です。



中京郵便局に到着。
ここが今日のウォークのメインの目的地のひとつ。
ここ中京郵便局がある場所は、1000年さかのぼれば「鬼殿(おにどの)」と呼ばれた藤原朝成の怨霊が跋扈していたとされる土地なのです。
かつて私は、鬼殿の場所を探したことがありましたが結局場所の特定には至りませんでした。
それは、一切看板や説明がなかったからです。
よくよく考えれば、看板などあるはずがありません。
京都にはそういった場所が実に多く存在しています。



中京郵便局に隣接する京都文化博物館。
ここも、おそらく鬼殿の敷地の一部か鬼殿に隣接する場所だったはず。



京都文化博物館。



京都文化博物館付近から中京郵便局方向を望む。
この通りは三条通り。
三条河原町と言う京都一の繁華街近くに、ほとんど人に知られずにひっそりと鬼殿跡は存在しているのです。



三条通りを東進。
こんな建物がありましたが、店として使われています。



「弁慶石」へ。
三条通り沿いにありますが、ビルの脇にありよほどよく探しながら出ないと見落としてしまうはず



「弁慶石」の説明。



弁慶石の正面。
今までは「弁慶の念がこもったとされる石」としか認識していませんでしたが、鬼殿の近くにある石ということでこれからは少し違った見方をしようと思います。






弁慶石の側面。
とても見事な人面石だと、今日初めて気付きました。



弁慶石の脇を通り、若い女性の二人連れがビル内の飲食店に入っていきます。
古い歴史があり忌み地も数多くある京都ですが、そんなのは遠い昔のこと。
狭い京都の地。
忌み地など気にしていては生活などできません。
でも、かつてはこの付近に藤原朝成の怨霊が跋扈していたことを知っている人が少しくらいはいてもいいかも。



「地獄地蔵」がある矢田寺へ到着。
「地獄地蔵」という恐ろしげな名前は以下のような言い伝えによります。
昔、大和の国に、幼少の頃から緑の山野をかけめぐり狩猟の得意な青年がいました。
ある時、優しかった青年の父が急な病で急逝。
母は継父を迎えたが、この継父は意地悪である上に極めて乱暴で、ことあるごとに青年に辛くあたり青年をいじめ続けました。
耐えに耐えていたがとうとう我慢できなくなった青年は、継父を殺害し、元のように母といっしょの幸せな家庭を取り戻すことを決意。
未明、青年は狩猟具を手にして父母のいる部屋へ乱入。
一撃で父を討ち、それを確認してみると、なんと青年が討ったのは憎んでいた継父ではありませんでした。
倒れていたのは優しかった母親だったのです。
継父は青年の様子から夜討ちを見抜き母を一人寝室に残して逃げてしまい、部屋には何も知らない母親だけが寝ていたのです。
青年は精神的に大きな傷を負い、程なく病死してしまいます。
死後、青年が地獄へ落ちる寸前で不思議なことに地蔵が現れ、青年を現世に蘇させます。
その地蔵さまは地獄地蔵あるいは生身(なまみ)地蔵と呼ばれ、ここ矢田寺の御本尊なのです。



その地蔵様は以下のような経過で矢田寺に置かれたとか。
満慶上人という僧が地獄の閻魔大王に地獄に招かれ菩薩戒を授けた際、地獄で一人の僧侶が黙々と地獄の責めを受けているのを目撃。
その理由を問うと、世の人々の苦しみの身代わりをしているとの返事。
心を打たれた上人は現世に戻ってからその僧の姿を刻んだ地蔵を彫り矢田寺に安置。
ちなみに。
満慶上人は菩薩戒を授けたお礼に閻魔大王から小箱をもらいました。
その小箱には米が入っていましたが、米を出した分だけまたすぐに増える不思議な箱だったのです。
ゆえに、満慶上人は「満米上人」とも呼ばれました。
不思議の都・京都を実感します。



矢田寺境内から寺町通りを望む。
三条寺町という繁華街のど真ん中に矢田寺はあります。



矢田寺の説明。



矢田寺の位置が分かりますか?
寺町通り商店街のアーケードの下に矢田寺はあるのです。



三条通りの河原町方向を望む。
三条河原町と言えば、京都でも屈指の繁華街。
その至近に矢田寺が存在します。



三条通りの、寺町通りと河原町通りの中間にあるソースヒレカツ丼のお店。



三条通りを東進。
河原町通りを横断してすぐに池田屋前へ。




元治元年6月5日の祇園祭の宵宵山の夜10時頃。
賑わう京の町で、「池田屋事件」が起きました。
「京都御所を焼き、孝明天皇を長州に連れ去ろうとしている武士たちが集まっている。」との情報を得た近藤勇は、新撰組の精鋭を率いて池田屋を急襲。
近藤勇率いる精鋭達と、池田屋で密会していた志士たちとが激しい死闘を繰り広げました。
池田屋事件は「明治維新の時期に影響を与えた。」とされるほどの、大きな歴史の出来事でした。



高瀬川に架かる三条小橋。
高瀬川は門倉了以達によって掘削された物流用の運河です。



あまり知られていませんが、生簀料理発祥の地はここ三条の高瀬川畔なのです。



京都三条は、東海道五十三次の西の起点。
東海道はその後、大阪城落城を達成した徳川の手によって大阪・高麗橋まで延長され、東海道は五十七次となります。
東海道五十七次の時代には、ここ三条は東海道とは切り離されました。。
参勤交代の大名が入洛し朝廷と交流することを嫌った徳川が、大津宿から西は三条を通らず伏見を通る洛中迂回路として新たに東海道を整備したのです。



三条木屋町辺りには、歴史を感じさせるものを多数見つけることができます。









三条通り西詰にある弥治・喜多の像。



三条大橋の擬宝珠には、池田屋事件の時に付いたとされる刀傷の跡があるとされています。



この擬宝珠です



刀傷とされる傷。
少し前にテレビで、この傷が果たして本当に刀傷かどうかを調べた番組が放映されていました。
気になるその結果は、「刀傷の可能性は確かにある。」というものでした。
何だかよく分かりませんが、観光関係者の人達は「刀傷であって欲しいと願う。」とのことでしたので、「刀傷」ということでいいのかなと思います。



三条大橋西詰を南進。
懐かしいお店前に。
私の大学時代にクラスの懇親会がここで開かれました。
その世話人はこの店の説明を「ミンミンという店で、字は眠いという感じを二つ書きます。」と間違った説明をしていたことを今でも覚えています。
「眠眠」ではなく「aa」なのです。



クラスの懇親会だけでなく、個人でもよくここに食べに来たものです。
当時は、モヤシ炒めが50円でした。
ここで餃子やモヤシ炒めで腹ごしらえし、外に出てから酒屋でビールなどを買い鴨川畔で騒ぎながらよく酒盛りをしたものです。
この辺りの鴨川畔はアベックの聖地なんですが、餃子を食べた後にぎやかに騒ぐ私達の周りにはさすがにアベックは近づきませんでしたねえ・・・・。



先斗町(ぽんとちょう)歌舞練場前へ。



京都らしい風情が漂います。






京都市街地の特徴のひとつに、このような路地が挙げられます。



舞妓さんがいたので記念撮影を依頼しました・・・・・。
nanntyatte・



舞妓さんをズーム。
え?!
「嘘だろう。」ですって。
舞妓さん達が私の依頼で気軽にポーズを取ってくれる。
本当に嘘みたいな話でしょう。
嘘やがな。(「大木ひびき」風に)
これってポスターなんです。



京野菜を店の前に出してアピールしている飲食店。
車が通れないほど道が狭い木屋町通ならではの風景。



石畳の美しい道。



四条に到着。
喫茶ソワレを目指します。



風俗店が林立。
観光客に見せたくない京都の負の風景です。



喫茶ソワレ。
学生時代によく来た喫茶店です。
と言っても勤労学生でしたので、来るのは夜間か休日限定でした。



シャッターが開いていました。
もう営業していないと思っていたんですが・・・・。



店内には電気が点いています。



看板の電気も点灯。
帰宅して調べたんですが、ソワレはどうやら今でも営業している模様。
営業時間が正午からなので、私が何度か訪問した午前中にはまだ営業していない時間帯だったようです。
ぜひ営業時間中に再訪しようと思います。



四条小橋。



真町地蔵尊。
二体の地蔵があります。
一体は「涙の地蔵」で、森鴎外の小説「高瀬川」にも出てきますが罪人を島流しで送り出す時に涙を流しながら祈った地蔵です。
当時は、えん罪も多く、また権力者にとって邪魔な人達も数多くが処刑されたり島流しされたりしました。
そんな人達の家族は、心から無事を祈って島流しの人を見送ったことでしょう。
それともう一体は、池大雅作と伝わる地蔵です。



真町地蔵尊の説明。



枡形の雰囲気が漂う道。



何だかとってもいい名前と雰囲気のレストランがありました。



メニュー。
まずまずの価格です。



ところが、レストランは閉店していました。



ここにも京野菜を店の前に出してアピールしている飲食店がありました。



市内中心部を流れる高瀬川は、生活に密着した小河川。



五条大橋西詰に到着。
牛若丸と弁慶の像があります。



弁慶像。



牛若丸像。



本日の最終目的地である河原院跡へ到着。
左大臣・源融の邸宅である河原院は、豪華さを誇った平安京の邸宅の中でダントツの一番で、その豪壮さは知れ渡っていました。
その河原院は、源融の没後 霊や鬼が出没したことでも有名で「京の都最強の幽霊屋敷」だったとか。(@_@;)
「江談抄」「今昔物語集」「古本説話集」「宇治拾遺物語」など多くの話で幽鬼の出没が記されています。
この古い榎の巨木は、河原院の庭園の一部である「籬の森(まがきのもり)」と呼ばれる森のなごりです。
籬の森は、もと河原院の邸宅内の庭の中の島「籬ノ島」が鴨川の氾濫で埋まってしまい、その跡が森として残ったと伝えられます。



河原院東側の鴨川べり。
ポツンと一つ、小さなお堂がありました。
ここら辺り一帯に広がっていた河原院の広大な邸宅。
京都市街地中心部を南北に貫く「河原町通り」の名前は、その河原院にちなんでつけられたとの説もあります。



旧遊郭の五条楽園へ。



遊郭の建物は独特の風情があります。



五条楽園歌舞練場。



遊郭の建物の鬼瓦。



正面橋へ。



正面橋の西詰には、鐘屋さんがあります。
これは商品ではなくおそらく宣伝用の鐘。。



更に南進。
医療関係の歴史博物館が。



この歴史博物館は、」いつ来てもこんな状態で常に閉まっています。
さて!
午後の仕事があるので、帰宅して食事をしなくては。


午前と午後の仕事の合間の5時間。
これからもどんどん有効活用していこうと思います。
それにしても、京都には本当に不思議な場所や興味をひかれる場所がいっぱいあるものです。



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