どんよりとした曇り空の日々が続く寒い毎日。
でも、久々に晴れ間が広がる日曜日になりました。
そこで今日は、「おとぎ電車」関連の遺構を追う3回目のウォークを行いました。


本日のウオーキング歩数、26,359歩。(うちエクササイズウオーク19,646歩)、消費カロリー865kcal、燃焼脂肪重量55.9g。

2012年1月29日(月)




「おとぎ電車が走っていたころ」という本を立ち読みするため、宇治市歴史資料館へ。
同じ敷地内にある宇治市中央図書館に行ってもいいんですが本を探すのが手間なので、手っ取り早く本を読める歴史資料館に寄りました。
懐かしい火鉢が展示してありました。
昔は石油ストーブなどなく、みんなこんな火鉢で暖を取っていたものです。



1958年に近畿地方を襲った台風13号は、宇治にも大きな被害を与えました。
なかでも水の被害は深刻で、巨椋池干拓田が水没し「巨椋池が再び現れた」ような状態にもなりました。
そんな水の被害で、「天ヶ瀬吊り橋」の愛称で呼ばれる旧・天瀬橋もその流出。
その流出した旧・天瀬橋の橋名が書かれた板が、歴史資料館に展示してありました。



歴史資料館で「おとぎ電車が走っていたころ」の本で「おとぎ電車」の情報を確認し、歴史資料館をあとに。
「肩切り地蔵」様へお参り。



不思議な話が伝わる肩切り地蔵。
地蔵さまの背後にも、「刀で切られた」とされる傷跡が残っています。



肩切り地蔵から白川の里を目指し、急坂を下ります。



山道の途中にある荒れ果てた竹藪。
竹林は人が手入れせず放置しておくと、竹がはびこり過ぎてしまいます。
その結果、地面に日が当たらなくなり下草が生えず土の表面が露出し雨で流れ易くなってしまいます。
増殖した竹同士が共存できず共倒れし、結果的に竹林は益々荒れ果てることに。
遠目では緑豊かなように見えても、手入れされていない竹林は近くで見ると荒れている場合がほとんど。



白川を通過。
藤原頼道の娘・四条宮寛子(しじょうのみやかんし)の供養塔である九重石塔前へ。



九重石塔は鎌倉時代のもの。
静まりかえった塔周辺のこの風景は、鎌倉時代そのままのもの。



白川からモミジ谷を経由して、通称「天ヶ瀬ビアガーデン」へ。
「バスビィ」という名前の地ビールを飲むことができたここガーデンズ天ヶ瀬は、レストラン天ヶ瀬の経営が傾いた後の1997年に開業。
一時期はかなり賑わったのですが、次第に経営が難しくなり2002年に無念の閉鎖。
地ビールはけっこうおいしかったのですが価格がやや高めだったことと、食べ物がどこにでもあるドイツ風のソーセージなどありふれたもの。
そして何より、交通の便が悪かったことが響いたのでしょう。
せっかくの地ビール製造施設も、わずか5年間で使われなくなったのはもったいない限り。



使われなくなった施設は急速に廃墟化します。
廃業以来10年を経過したガーデンズ天ヶ瀬も、そろそろ劣化が進み始めています。



汚水処理施設制御盤。
もちろん稼働していません。



この設備などはまだまだ使えそう。
ほとんど風化していません。



多くの使われなくなった施設は管理がいい加減になり、その結果 部外者が多数出入り。
一部の不心得者にガラスを割られるなどして荒されると、廃墟化が一気に加速。
でも、ここガーデンズ天ヶ瀬は管理が厳重で部外者が出入りする隙間は全くありません。



二階部分。
部外者が入れないよう管理されているんですが、障子紙がなぜかビリビリ。
破られたように見えますが、でもよく見てみるとどうやらそうではないようです。
障子紙が貼ってある部分の糊が風化して粘着力が低下したため、湿気を含んで重くなった障子紙が垂れ下っている模様。



ガーデンズ天ヶ瀬をあとにして天ヶ瀬ダムへ。



天ヶ瀬ダム堰堤へ。
ずっと工事中だったんですが、堰堤の改装工事が終わってとってもきれいになっていました。



改装なった堰堤上を進みます。



天ヶ瀬ダム堰堤上から見る「おとぎ電車」の線路跡。
宇治川右岸の旧・志津川発電所のレンガ造りの建物からこちらに一直線に延びる空間が線路跡です。



旧・天ヶ瀬発電所の建物をズーム。
二つのレンガ造りの建物の間にある空気抜きのような物は、建物の屋根から延びているのではなく独立しているんだということを、今日初めて知りました。



旧・志津川発電所の南側の空き地をズーム。
この空き地は、おとぎ電車・天ヶ瀬駅の跡地なのです。



ここをかつて、その名もメルヘンチックな「おとぎ電車」が走っていたのです。
そして、そのおとぎ電車に私は乗った記憶があります。



天ヶ瀬ダムを監視する監視船「かわせみ号」。
ホバークラフトですので、操船には高い技術が必要です。



鳳凰湖右岸は途中でゲートがあり閉鎖されています。
崩落が激しく危険だからです。
そこで、天ヶ瀬森林公園へ向かう階段を上がって周辺を調べ歩いているといつの間にか道を間違い、こんなところに。
「何だか見たことがある場所だな。」とよくよく考えると、思い出しました。
何と!
ここは、おとぎ電車が廃止され天ヶ瀬ダム完成した後に運航を開始した宇治川観光船の発着場跡ではないですか。
やった〜。
おとぎ電車そのものの遺構ではないですが、関連施設の遺構を発見したのです。



懐かしさに言葉が出ません。
今でもこんな物が残っていたとは。
建物こそないものの、発着場があった痕跡ははっきりと残っています。



鳳凰湖右岸を少し南進すればここに来れるはずですが、鳳凰湖右岸は立ち入り禁止。
だから今まで、この発着場跡を発見できなかったのです。
偶然道を迷ってしまった結果、ここに来ることができました。
でもこの一帯は立ち入り禁止。
戻らなくてはなりません。
戻る前に、もう来ることがない発着場跡をしっかりと目に焼き付けることにします。












飲み物の空き缶が置いてありました。
立入禁止ゾーンですが、誰かが訪れたのでしょうね。



汽船の発着場跡をあとに。



鳳凰湖右岸を南進。
こんなゲートを出ました。
やはり今までいた所は立入禁止ゾーンだったようです。



でもゲートとゲートの間にこんな隙間が。



上の写真の反対側。
鳳凰湖右岸の上流側です。
鳳凰湖右岸を天ヶ瀬ダム堰堤方向へ向かうゲートが走り高跳びのハードル状だったのと比べると、こちらはかなり強固なゲート。
侵入は極めて困難・・・・かと思っていたら。



ダム湖側にこんな「獣道」ができていました。
右側の隙間を通るとまだ先に行けそうです。
ただし写真には写っていませんが、右側の斜面下はもう鳳凰湖の水面。
スリップして転落すると、その先は水深数十メートルの湖面。
危険を冒してゲートを通過し進んでもここから先には何もないし、遊歩道の先には道が完全崩落して遊歩道そのものが斜面の一部になってしまっている場所さえあります。



もう誰の役にも立たなくなった、立入禁止ゾーンの案内板。
「バス停 駐車場」の案内は、鳳凰湖右岸を通る場合の案内。
もちろん、今はもう誰一人通る人はありません。



森林公園の駐車場まで戻り、急な階段を下りて再びダム堰堤の右岸へ。
鳳凰湖右岸を南進する道はゲートで完全に閉鎖されています。
この先に、先ほど道を間違って行ってしまった宇治川観光船の発着場があるということになります。



ゲート横から見る鳳凰湖右岸。
ここからでは宇治川観光船の発着場跡は見えていません。



「かわせみ号」の横を通過。



「かわせみ号」を出庫・格納するのは、こんな階段状の設備。



新しくなったダム堰堤に入るのには、新設された左岸の有人詰所前で住所と氏名を書く必要があります。
そして、これまでは24時間出入り自由だった堰堤は、午後5時以降の夜間には立ち入り禁止になります。
その理由は「自殺者の増加」だとか。
新しくなった堰堤には様々な展示が取り付けらました。
これは、天ヶ瀬ダム建設の様子。



おとぎ電車の線路跡を再び見ます。



これも、天ヶ瀬ダム建設の様子。



これも、天ヶ瀬ダム建設の様子。
ドーム型アーチ式ダムでも、内部にはこうした直線的な躯体が入り込んでいるんですね。
初めて知りました。



ドーム型アーチ式ダムがまだ直線的な時の写真をズーム。



天ヶ瀬ダムができる前。
おとぎ電車や大峯ダムの姿が写っています。



天ヶ瀬ダムの建設に伴い爆破・解体され、天ヶ瀬ダム湖に沈んでしまった大峯ダムの姿。



天ヶ瀬ダムができた時期と、建設の理由。



ダム堰堤を通って左岸まで戻り、左岸を南進。
宇治川観光船の発着場跡を対岸から見ることにします。



左岸から見る鳳凰湖。



宇治川観光船の発着場跡が見えてきまし。
発着場跡をズーム。



こんな感じで宇治川観光船の発着場跡は存在しています。
おそらくほとんど誰もが、これが宇治川観光船の発着場跡だとは考えずに見過ごしているんでしょうね。



この辺りが、宇治川観光船の発着場跡のほぼ対岸にあたります。



少しズーム。



もっとズーム。



宇治川観光船の発着場跡の対岸からの観察を終え、再びダム堰堤方向へ北進。
こんなものが。



ダム湖から回収したゴミを運び出すモノレール。
こんなものがあることにはずっと気づきませんでした。
いつ頃できたんでしょうか?



京都府下唯一のドーム型アーチ式ダムの端麗な姿。



天ヶ瀬ダムの下へ向かいます。
ダム下へ下る道路から見る管理棟のレーダー。
私が小学生の時に、完成なった天ヶ瀬ダムまで来て絵を描く授業がありました。
ダム本体は難しそうだったので困った挙句、簡単に描けそうだったのでこのアンテナを描いたことがあります。
ところが、簡単そうに見えてこんなアンテナを描くのは非常に難しく、しかも出来上がった作品は極めて貧弱。
「こんな物を描くんじゃなかった」と後悔したことが思い出されます。



天ヶ瀬ダムの下に向かう坂の途中に、ガーデンズ天ヶ瀬の建物へ上がる階段がありました。
階段は立入禁止ではなかったので、少し上がってみることに。
ガーデンズ天ヶ瀬の建物は、裏側もやはり厳重に閉鎖してありました。



日本最大の斜流水車(デリア水車)を使用している天ヶ瀬発電所。
同じく日本最大の斜流水車を利用する北陸電力・西勝原第三発電所のものが固定翼なのに対し、ここ天ヶ瀬発電所の斜流水車は可変翼です。



1964年5月に運用が開始されたここ天ヶ瀬発電所は、認可最大出力:92000kW(常時出力: 6600kW)。
黒四発電所の認可最大出力:335000kW(常時出力: 88000kW)には及ばないものの、国内でもかなり大規模な水力発電所のひとつです。



かなり下ってきたので、旧・志津川発電所が間近に見えてきました。



対岸の、おとぎ電車「天ヶ瀬駅」跡を望む。



旧・志津川発電所をズーム。



旧・志津川発電所と、その右側とでは石垣の石の色が違います。
右側の色が少し白っぽい石垣の上に、おとぎ電車・天ヶ瀬駅がありました。



石垣をズーム。
明らかに左右の違いがあります。
色も違うし、志津川発電所跡の方の石が立体的なのに対し、おとぎ電車天ヶ瀬駅側の石垣はやや平面的になっています。



石垣は、形状だけでなく高さも左右で異なっています。
右側の石垣とコンクリート構造物を合わせた高さが、ちょうど宇治川右岸の道の高さと同じです。
宇治川右岸を通って天ヶ瀬駅に来たお客さんは、段差を感じることなく右側の石垣の上にあった駅に入ることができたということでしょうね。



志津川発電所前にあるレール。
これを「おとぎ電車の線路跡だ」とする説もありますが、私は今日の調査で「そうではない」と確信しました。
その理由は、このレールの敷かれている高さです。
このレールは、宇治川右岸より2メートル近く低く、そして天ヶ瀬ダムの上から見た線路跡の高さとも明らかに異なっているからです。
「おとぎ電車」の詳細が記述されている「レイル」のNo.78を数日先に注文予定ですので、その本でこのレールに関する新しい事実が判明するかもしれません。



天ヶ瀬ダムに下る坂を利用した地下空間がありました。
こんな物があることは、何度もここにきているのに今日の今日まで気づきませんでした。
中をのぞくと「火気厳禁・頭上注意」と書かれた注意書きがありましたので、現役で倉庫か何かに使われている模様。



宇治川右岸のところどころに、こうしたコンクリート製の構造物が見受けられます。
位置から考えると「おとぎ電車」のものでないことは明らかですが、志津川発電所や大峯ダム建設関連の施設跡である可能性が濃厚。




旧・志津川発電所前のレールをズーム。
やはりこれは「おとぎ電車」の線路跡ではありません。
おとぎ電車は、初期の頃にはよく脱線したので、こんな危険な線路を通ることはあり得ないでしょうね。
ここを通って脱線したら、宇治川に転落する可能性もありますもの。
それより何より、おとぎ電車の始発駅はこの位置よりもっと上流側だったのです。
もっと上流側に駅があり、そしてその駅を出たおとぎ電車は更に上流側に進行していきます。
だからこのレールの上をおとぎ電車が走っていた可能性は、断定こそできないもののどう考えても限りなく0に近いですね。



夕陽に染まる旧・志津川発電所前へ。



志津川発電所の東側。
おとぎ電車に乗るため、乗客はここからまっすぐ進み、突き当たりを右に曲がって天ヶ瀬駅に入って行ったのです。



柵の中にカメラを入れて写しました。
レンガ造りの建物の横を通り、当時大人気だったおとぎ電車に乗る。
乗客全てが胸をわくわくさせる瞬間だったことでしょう。
私が乗った時には父親の会社のレク行事として団体予約が取れたので乗ることが可能でしたが、個人ではきっと切符が取れなかっただろうと思います。
人気が高かったおとぎ電車は乗るのにも一苦労だったので、乗る喜びはひとしおでした。



志津川発電所の東側に今も残る導水管跡。



これも、志津川発電所の東側に残る導水管跡。



志津川発電所の南側にある「おとぎ電車・天ヶ瀬駅」への通路跡が見たかったので、志津川発電所の東側にある崖に登りました。
崖の上から見る志津川発電所跡と、志津川発電所東側の「おとぎ電車・天ヶ瀬駅」への通路跡。
しかし残念なことに、この位置からは志津川発電所の南側のおとぎ電車通路跡を見ることはできません。



崖の上を眺めます。
写真では平坦のようにも見えますが、実際には90度近い急傾斜。
この崖を登って少し南側に行くと、あるいは志津川発電所南側の「おとぎ電車・天ヶ瀬駅」への通路跡を見ることができるかもしれません。
でも、危険だし、そこまでの危険を冒してまで見ることもないと思い、崖を更に登るのは断念しました。



崖から下りました。
再び旧・志津川発電所前へ。
前回来た時に、無人の発電所跡方向から小さな音で音楽が流れてきました。
その時には、「天ヶ瀬ダムの上から聴こえてくるんだろう」と考えましたが、今日ダムの堰堤に行ってその考えが正しかったことが分かりました。
ダム堰堤が新しくなり管理も強化されましたが、同時に開放時間中は常に堰堤上で音楽や注意点や説明が常時放送されていたからです。



旧・志津川発電所の建物の間にある空気抜きのような設備。
建物の屋根に設置されているように見えますが、そうではなく建物と建物の間に独立して設置されていることを先ほど行ったダムの堰堤上から確認しました。



旧・志津川発電所をあとにして、宇治川右岸を北進。
志津川を渡る橋の下。
こんな小さな神社がありました。
こんな神社があることにも今日初めて気付きました。
ここに来る人はほとんどないようで、神社から宇治川右岸の道に上がると犬の散歩中の人から不審そうに見られその散歩中の犬からも激しくほえられました。



小さな神社の横にあった巨木。



樹齢300年の えのきだそうです。



宇治川右岸へ。
北進します。
ここにもコンクリート製の何かの遺構がありました。
これも、志津川発電所や大峯ダム建設関連の施設跡である可能性が濃厚な遺構の一つです。



天ヶ瀬橋(天ヶ瀬吊り橋)東詰。
この位置に、おとぎ電車乗客を歓迎するアーチが設けられていました。
遺構が無いか探しましたが、アーチの遺構は残っていませんでした。



宇治川右岸を南進。
観流橋南詰近くにある泰初庵。
この泰初庵が何の建物かずっと分からなかったんですが、この日通りかかると「京都茨城県人会」が開催されているようでした。
宴会ができる場所なんでしょうか?
それにしても全くそうした話は聞かないし・・・・。
何だかよく分かりません。



宇治発電所の流れをまたぐ観流橋。



宇治発電所からの流れ。
この水はダム湖や宇治川から来るのではなく、瀬田川の南郷にある制水門から直接流れてくるのです。
だからブラックバスやブルーギルなど琵琶湖にいる外来種などがよく釣れるため、よく釣り人がこの近くで釣りをしています。
ちなみに。
私は、瀬田川からここに至る流れを追うウォークを近々実行予定です。



日没を迎えました。
塔の島の十三重の塔の向こうに夕陽が沈みます。



歩行者専用橋「あさぎり橋」へ。
さて帰路に。



おとぎ電車の遺構。
なかなか見つかりません。
いえ、結果的に見つからなくてもそれはそれでいいのです。
おとぎ電車の遺構を追うことは、自身の過去に縁がある場所を追うことでもあると前回のウォークで気付いたからです。
社会人生活を終えた今、自身の過去に縁がある場所に触れることはとっても興味深いもの。
それと、今日のウォークで、「南郷にある宇治発電所取水口〜宇治発電所の水が宇治川に流れ込む観流橋」までの全線を歩くことを心に決めました。
「おとぎ電車の遺構を追うウォーク」をしていると、連鎖的にしたいことや行きたい場所が増えていきます。



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