久々の快晴。
朝と夕刻の仕事の合間に、「おとぎ電車」関連の遺構を少しだけ追いました。


本日のウオーキング歩数、23,432歩。(うちエクササイズウオーク18,569歩)、消費カロリー925kcal、燃焼脂肪重量54.3g。

2012年1月17日(火)




朝の仕事の帰路で「今日は好天なので、帰ったら おとぎ電車 の遺構探しを進めよう」と考えました。
帰宅し、本当はウォークでおとぎ電車の遺構探しに行きたかったんですが時間がないので車に乗り自宅を出発。
喜撰山大橋に到着。



喜撰山大橋。
関電の敷地になりますので中には入れませんので、格子の間から手を入れて写真を撮りました。
ただ私か過去に一度、仕事の関係でこの上の池尾から下ってきてこの橋を渡ってここまで来たことがあります。



宇治川(ダム湖)上流側。
喜撰山揚水発電所の取水口が見えています。



更に上流側、石山・浜大津方向を目指します。
宇治川沿いは、けっこう落石があります。
この日も、落石防止関連の工事中で片側通行の場所がありました。



大峯橋に行く予定でしたが、曽束大橋まで来てしまいました。
大峯橋を見落とした、と言うか大峯大橋がどの橋なのかよく知らないままに自宅を出たのです。
何度も何度も通っている場所なのですが、今まではどの橋が何という名前の橋なのかほとんど興味がなかったので、橋の名前は詳しく知らないのです。
曽束大橋を渡り、右側の石山方向と反対の左側に曲がり坂道を進んでいくと、「二尾(にのお)」に着きました。
かつての仕事関係で二尾には何度も行ったことがあるのですが、地理を完全に忘れてしまっていました。



曽束大橋からUターンして引き返します。
すると、これまた懐かしいものがありました。
これには見おぼえがあります。



舟座敷。
そう言えば、そんなものがあった店がありましたねえ・・・・・。



「ぜんまい茶屋」の看板が。
そうそう、ぜんまい茶屋でした。
思い出しました。



ぜんまい茶屋の建物の近くにこんな女性像がありました。
位置関係から考えて、ぜんまい茶屋のものに間違いありません。
でも、こんな像があった記憶は全くありません。



わらぶきの素敵な建物です。
ただ、雰囲気がねえ・・・・・・。
雨戸の中途半端な空き方といい、何だか変なのです。



建物に近づいて唖然としました。
ぜんまい茶屋はもう営業をしていないばかりか、荒れ果てた廃墟になっているではありませんか。



建物にはもう開閉できるドアはなく、吹きっさらし。
内部はこのようになっていました。
荒れ放題ですが、天井の照明や扇風機はまだ新しさを保っていました。



リボンシトロンの冷蔵庫が転倒していました。
重い冷蔵庫が自然に転倒するはずがありませんので、だれかが荒らしたのでしょう。
使われなくなった建物が自然に朽ちていくのは当然ですが、その過程で人が荒らすことは廃墟化を一気に進めます。
廃墟によくある落書きがされていないのが、救いと言えば救いですが。



調理場からお客さんに料理を出すカウンターの上部。
「お待ちどおさまでした!」との声が聞こえてきそうな、そんな感じがします。



トイレもさほど荒れてはいません。



ガラスが割れているのは明らかに人為的。



調理場の横に狭い部屋がありました。
従業員の休養などに使われていたのでしょうか。
床が抜けかけています。


調理場内から店内を望む。



木製の棚には、まだ食器が一部残されていました。



調理場を出て再び店内へ。
右側の池のようなものは、確か生け簀だったと思います。
「舟座敷」ですので、生け簀に泳ぐ魚を見ながら食事ができたのです。



足元に落ちていたカレンダーは、1999年のものでした。
11月までカレンダーがめくられていますので、1999年11月頃までは営業していたのかもしれません。
さて、ぜんまい茶屋をあとにして、先を急がねば。



支流から流れ込む「せんすいはし」付近の宇治川(ダム湖)。



ダム湖の水が減っているので何か見えないか目を凝らしますが、何も見えません。



階段が見えています。
比較的新しそうな階段で、途中で階段は途切れています。



天ケ瀬ダムが完成して以来普段は水中にある立木が、冬季の減水によって姿を現しています。



「みどりはし」近くの御食事処「かんばやし」です。
営業時間になれば食事を食べることができます。
御食事どころですが、古美術品販売が本業のお店のようです。



こういったメニューがあります。
ぜんまい茶屋や、少し下流の宵待橋近くの宇治茶寮が廃業してしまった現在、この付近では貴重な御食事どころです。



往路で大峯橋を見落としたのは、橋のたもとが工事中だったからのようです。
大峯橋を通り過ぎ、駐車可能な場所に車をとめてウォークで大峯橋を目指します。
向かって左側、川に近い車線が通行禁止でした。



大峯橋に到着。



大峯橋のたもと下流側に建つ「志津川ダム 大峯発電所」と刻まれた石碑。
ん?!
存在したのは「志津川発電所」と「大峯ダム」だったはず。
反対なのでは?
でも違うんです。
大峯ダムは志津川ダムとも呼ばれていましたし、その大峯ダムには志津川発電所とはまた別の「大峯発電所」があったのです。
その志津川ダムも大峯発電所も両方とも、今はこの大峯橋の下流に沈んでしまっています。



大峯橋の上流。



大峯橋へ。



宇治川左岸・大峯橋上流に、大峯ダム関連と思われる遺構が見えています。



宇治川右岸・大峯橋上流にも、大峯ダム関係と思われる遺構が見えてきました。



これは何でしょうか?
大峯橋周辺には何もないので、おそらく大峯ダム関連のもの。
それにしては新しすぎる気がしますが・・・・。



これも大峯ダム関連の遺構だと思われます。
普段は水中に沈んでいるので、泥が乾燥して薄茶色っぽくなっています。



けっこう形がはっきりと残っています。
足場がしっかりとしていて近づけそうなので、向こう岸に渡ったら近くまで行ってみようと思います。




宇治川右岸・大峯橋下流に、古い電柱を発見!
やっと、たった一つだけれど、ついに「おとぎ電車」の遺構を見つけました!
おとぎ電車に関する書籍を2冊買い色々と調べた結果、この電柱跡は、ほぼ間違いなく「おとぎ電車」に電気を送る送電設備だと考えられるのです。



ズーム。
感動です。
100%絶対にそうだと言い切れないものの、まず間違いなくおとぎ電車の遺構。
初めて見つけた「おとぎ電車」の遺構に喜びもひとしおですが、ただこれまで結構いろいろと探して歩いたのに今まで全く見つからなかった遺構。
あるいは、もう他には遺構はない可能性が高いかも。
それでも何でも!
少なくとも一つは見つけたことになります。



大峯橋を渡り、宇治川右岸近くに到着。



普段は水中に沈んでいる立木が、冬季の減水によって姿を見せています。
水中にある間は酸素がほとんで供給されないので酸化せずそのため地中に根を張っていた水没前の時のままの姿を保っています。



宇治川右岸側の大峯橋。



大峯橋を渡って右岸に至りました。
右岸に渡っても、下流側へ向かう遊歩道は崩落が激しく危険なので行くことができません。



下流側には、進入できないようにフェンスが設置してあり立入禁止の案内もあります。



フェンスの間から下流側の遊歩道を撮影。
岩がごろごろと転がっていますが、少し先までは行けそうです。



フェンスがL字型に設置され、下流側遊歩道への進入を阻んでいます。



しかし近づいてみるとこんな感じ。
立木につかまって向こう側に行ったと思われる踏み跡が多くついています。
しかしこの先には特に何もないはずなので、危険をおかしてまで以上下流側に進むことはしません。



進入が規制されていない上流側に進みます。



橋の上から見えていたコンクリート製の構造物へ到着。
旧志津川発電所へ水を送っていた導水路の取水口です。



コンクリート製構造物の内部。
ダム湖の水面よりかなり下まで水がありません。
現在進められている宇治川再開発計画では、この導水路の再利用も検討項目になっているようです。



さほど大幅にダム湖が減水しているわけではありませんが、それでもけっこう多くの遺構を見ることができます。



コンクリート製構造物の先端より上流側を望む。



泥にまみれた遺構群。



階段や石垣。



普段水没している部分がはっきりと分かります。
こうして見ると、けっこう多くの遺構が水の下に存在していることが分かります。
実際の大峯ダムは、大峯橋の下流、おそらく大峯橋と宵待橋の間くらいにあったはず。
だからこの遺構は、大峯ダム湖の上流にあった管理用の施設だと思われます。
あくまで想像の域を出ませんが。



上流側の石垣や階段をズーム。
こんな感じなら、この下流にあった大峯ダム本体も、ひよっとして水がもっともっと減れば見えるかな?
なんて思いましたが、残念ながら大峯ダム本体は天ケ瀬ダム建設に伴って爆破されてしまい本体が完全な形で残っているわけではないのです。



下流側を望む。



近い場所を中心に、遺構を子細に観察することにします。



金属製の構造物をありました。
水の中で錆びてなくなってしまわずに残っている金属製遺構があったとは!



ボルトで固定してあるレールのように見えます。



更に近づきます。
やはりレールのようです。
ボルトでしっかりと固定されています。



レール近くにはけっこう大きな構造物もあった雰囲気がうかがえます。



数段の段があり、その先には金属の鉄筋と、そして水中に金属製のパイプのようなものも見えています。



やはりパイプのようです。
直径は3〜4cmくらいでしょうか。



階段。
5段ほど下ると砂利になり、その先右側は急激に深くなっています。
右側に石組みがある可能性があります。



対岸(左岸)を眺めます。
右岸のコンクリート製構造物の下とよく似たものが見えていますが、よくよく見ると全く別のもの。



そろそろ撤退することに。
水中から忽然と姿を現した水に沈む前の周辺の様子をしっかりとまぶたに刻みます。



再び大峯橋へ。
右岸を見下ろします。



宇治川左岸・大峯橋上流に、こんなものもありました。



よく見ると、くぼんだ部分にチェーンのようなものが見えます。



階段。
数えたところでは9段くらい。



右岸側に、水没した木の上部が顔を出しています。



駐車してある車に戻ります。
大峯橋付近が光ファイバーの工事で片側通行。
ゆえに、その車通行禁止区間をの〜んびりと歩きます。
通っている車に気をつけなくてもいいので、風景をしっかりと見ながら歩くことができます。






再び車に乗り、宵待橋へ。
この石碑の前に車を1台駐車するスペースがあったので車をとめます。
今日の最後の調査地点です。
大峯ダムは大峯橋と宵待橋の間にあったので、何か手掛かりがないかここも調査することにします。



石碑の奥の道。
弘法の井戸に続く道です。



宵待橋。
橋周辺を観察しましたが、特にダムに関するものは発見できませんでした。



宵待橋付近では大峯ダムに関するものは何も発見できなかったので、もう帰ろうと思いました。
でも、これがちと気にかかりました。
建物が無くなってコンクリートの基礎だけが残っている建物。
宇治茶寮ですね。
転職前の職場で、一度ここで忘年会が開かれたことがあったことを思い出しました。



店名のプレート。
風化したのか破壊されたのか分かりませんが、ボロボロになっていました。



宇治茶寮の跡地は売土地になっているんですね。
おや?階段が。
そう言えば、確かここの風呂はダム湖を眺める斜面にあったはず。
ということは、この下にまだ建物が残っているかも。



忘年会があった時の記憶をたどりながら恐る恐る階段を下ってみました。
すると、宴会場らしき大広間がありました。

かなりの荒れ具合ですが、当時のことを少しずつ思い出し始めました。



地下の空間をまわります。
こんなものが。



小部屋。
床が抜けて歩くには危険な状態です。



舞台。
そうそう。
転職前の職場の忘年会がここであった時に、Yさんがこの舞台で何か出し物をしていたっけ。
その後、何が原因だか忘れたけどそのYさんと口論になり、喧嘩しながらお酒の飲みあいをしていたなあ・・・・。

Yさん:「飲んだぞ!次はお前や。飲めや。」
godzilla:「おう飲んだるわ!その代わり、飲んだらまたお前が飲めよ。」
Yさん:「お前は口が悪いなあ。」
godzilla:「お前もや」

Yさんは、私よりずいぶん年上で、そして上司。

当時私は、昼間は働き夜間には大学に籍を置いていました。
総評青年協の政治運動に軸足を置きながら、時には反戦系の活動にも参加。
合間に冬山登山に励み、私設・奈良夜間中学校のボランティア講師も。
奈良市教育委員会との「夜間中学公立化」闘争の交渉では、行政側の不条理を心から怒って大声を張り上げ口角泡を飛ばしながら公立化を迫りました。
そんな活動的な若い頃は、怖いもの知らずでしたねえ・・・・・。
Yさん、あの時は失礼しました。<m(__)m>

蛇足ですが、私設・奈良夜間中学校は、粘り強い交渉の結果、春日中学校夜間部として公立化され今に至ります。
公立化がかなった時点で私たちボランティアの役割は終わりました。

私が転職した動機は、まさにその時の経験に基づきます。
「夜間中学校が公立化されたら、俺たちボランティア講師はお払い箱」という実態が私を奮起させ、佛教大学の通信制で免許を取り、必死に勉強して公立学校教員の採用試験に合格する原動力になりました。

そして時代は流れ、公立学校教師に転職した私は昨年3月末で定年退職しました。
退職した時点で、私の中で長く引きずっていたものの一つがプツンと切れました。
それは、「一つのことが終わった」とでも表現することができるんでしょうね。



記憶は正しかったです。
やはり斜面に建物が建っています。
どこかに、ダム湖を眺めながら入れる風呂もあるはず。



扉に丁寧に何の部屋かのプレートが着いています。
ん?
写真右下に影があるけど、写真を写す時には前に何もなかったはず。
何の影だろう・・・。
分からないけど、まあいいか。



やはりありました。
ダム湖を眺められる風呂です。
この風呂に入った記憶がよみがえって来ました。
昼間見ると明るいのでダム湖が見えていますが、忘年会で利用したのは夜。
夜にはダム湖がライトアップされているわけでもなく、風呂に入ってもダム湖は全く見えませんでしたねえ・・・。



窓ガラスが危険な形で割れていました。
風化してこんな形でガラスが割れるはずがありません。
誰かが故意に破壊した可能性が大。
誰も見ていないからって、破壊して心が痛まないのでしょうか。



物置にもプレートが着いていました。
物置内には何もありませんでした。



また風呂がありました。
こんな風呂は知らないので、従業員用か家族風呂かな思いました。
でもよく考えると、女風呂がありませんので、おそらくこれは女風呂なんでしょうね。
今ならこんなことがあれば女性差別だと非難されること必至ですが、かなり以前は男風呂と女風呂とは雲泥の差があった時があったのです。
でも本当にこれが女風呂かどうかは知るすべはありません。
ダム湖を望む風呂を時間を区切って「女用」「男用」として使っていたのかもしれませんよね。
そのあたりは記憶がありません。



屋外へ。
上部(駐車場)の床が抜けています。



写真右側の鉄骨がむき出しになった下はもうダム湖。



屋外の通路に実に不思議なものがありました。
これです。
他に何もないのに、こんなものが一つだけポツンとありました。



一部木が焦げている場所がありました。
失火か放火でもあったんでしょうか。



屋外にこんなタンクがありました。
おそらく浄化槽。



トイレは男女用ともに健在でした。
どう考えても無人に違いないのですが、それでも女性用に入る時には「失礼します」と声を出して入りました。

ただ、女子トイレに入る際に「失礼します」と声をかける前に、たった一つだけ心に決めたことがあります。
それは、仮に女子トイレの中から「は〜い」なんて返事があっても、絶対に脱兎のごとく逃げ出さないこと。
その理由は「声の主の正体を確かめる」なんでものではなく、床がぼこぼこに抜けているから。

仮に実生活の中で、「リング」の映画で貞子がテレビ画面jから抜け出して迫ってくるような事象があったなら、おそらく誰でも腰が抜けた状態になり動けなくなるはず。
無人の廃墟であわてて床を踏みぬいたりしたら、動きが止まる、あるいは最悪骨折などの怪我で身動きできなくなる可能性あり。
その状態はまさに、前述の、貞子がテレビ画面jから抜け出して迫ってきて身動きできなくなる状態そのもの。
貞子が迫ってくるのに逃げることがかなわない・・・・・。(;一_一)
一人きりの状態で絶対にそうなってはいけないので、仮に「は〜い」なんて返事が女トイレからあってもあわてて行動して動きが取れなくなる遇は絶対に避けようと心に決めたのです。

返事があったらおそらく思い切り怖かったはずだったんですが、幸いなことに結局女トイレからは私の声かけに対しての返事はありませんでした。

トイレ横の道具入れには、いつでも掃除ができそうな片付いた状態で道具類が置いてあったのが印象的でした。
こんな整理された状態は、いつからなんでしょうね。
廃業の時からなんでしょうか?



宇治茶寮から外に出ました。
外に出たら、何だか夢でも見ていたような気がしてきました。
宇治川に流れ込む田原川の水面を眺めながら、過ぎ去った日々のことに思いを馳せます。
Yさんはどうしているんだろう、元気にしているんだろうか・・・・。

さて、12時を過ぎたしそろそろ帰らねば。
お腹が減ってきたぞ。




おとぎ電車の遺構。
本当にそんなものがあるのかどうか、だんだん自信が無くなっていました。
でもたった一つだけですが、ついに今日「おとぎ電車の」遺構を見つけることができました。
嬉しい限り。
これからも「おとぎ電車」の遺構探しは続けますが、あるいは他にはもう遺構は何ひとつ残っていないかもしれません。
でも、それでもかまいません。
おとぎ電車の遺構を追うことは、自身の過去に縁がある場所を追うことでもあると今日気付いたからです。
社会人生活を終えた今、自身の過去に縁がある場所に触れることはとっても興味深いものなのです。



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