今日は、「肩切り地蔵」経由で志津川発電所跡を訪れました。
目的は「おとぎ電車」の遺構を追う一環として。
帰路では、凶刃に倒れた労農党代議士だった山本宣治氏の墓所を訪問。
歴史を感じるウォークになりました。

「おとぎ電車」の遺構を見つけるのはなかなか難しいと感じました。
「おとぎ電車」は私が子どもの頃に何回か乗った記憶があります。
見つかるかどうか分かりませんが、何回かに分けて「おとぎ電車」の遺構探しをしようと思います。
結果的に「おとぎ電車」の遺構が見つからなくてもそれはそれでかまいません。



本日のウオーキング歩数、21,478歩(うちエクササイズウオーク16,248歩)、消費カロリー756kcal、燃焼脂肪量49.1g。


2011年12月23日(金)




最初の目的地は「肩切り地蔵」。
とっても分かりにくい場所にあるにもかかわらず案内なども皆無。
まずは、折居台という住宅地のもっとも高い場所にある鉄塔を目指します。
鉄塔下に到着。



鉄塔の右側にこんな道があります。
5メートルほど先に見えているT字路まで進み、突き当たりで右側を見ると墓所があります。
でもそちらではなく、墓所と反対側の左側に曲がります。



竹藪と住宅の裏の間の道を進みます。



ほどなく肩切り地蔵に到着。
説明も何もないので、知らない人はただの路傍の石地蔵さまと思うはず。
ただの石にも見えますが、でもそうではないのです。
不思議ないわれがある石地蔵なのです。
以下、京都新聞の「ふるさと昔語り」よりの引用。

「ただの石にも見えるが けさ懸けに切られたように深くえぐれた跡が、白川地域に伝わる不思議な物語を伝えている。
 昔、白川の里の寺に若い寺侍がいた。
 碁が好きでのめり込み、やがて仕事そっちのけで夕方になると、碁の強い相手を宇治の町に探しに行くようになった。
 婚約者だった住職の娘は心を痛め、勧請坂の地蔵に『まじめに戻ってほしい』と毎日お参りした。
 ある夜、寺侍が碁を打ち終えて勧請坂まで帰ると、暗がりに住職の娘の姿が。
 だが様子がおかしい。
 『こんな夜更けに奇っ怪な。化け物がたぶらかそうとしているに違いない』と刀で切りつけた。
 その夜、娘の夢枕に地蔵が立ち、話を聞いて驚いた住職が翌朝に坂に行ってみると、谷底にけさ懸けに切られた地蔵が転がっていた。
 物語は、地蔵が住職と村人によって引き揚げられて手厚く祭られ、改心した寺侍は娘と結ばれて幸せになった、と続く。
 地蔵は「肩切り地蔵」の名で白川の人々に語り継がれ、大切に祭られてきた。
 白川地域は小集落だが、中世には金色院という大寺院があったとされ、山門が今も残る。
 宇治市の中心部へは峠を越えて行く細い道があり、地蔵のすぐ後ろはがけになっている。
 毎夜、寺侍が碁を打ちに行き来したとしても不思議はない。」



石地蔵には よだれかけがかけられていました。
子どもを守る菩薩である地蔵さまには、よだれかけがかけられていることがよくあります。
地蔵さまによだれかけをかける理由はさまざまに語られますが、私の心に一番ストンと入ったのは次の説明でした。
新潟県津南町の「広報つなん」に載った、土地のお年寄りから聴いたという話です。

 「地蔵菩薩は、常に黄泉の国を歩いておられます。
 三途の川にも必ず立ち寄られます。
 母親はこの地蔵尊に万事を託すのです。
 地蔵尊は母親の願いを何でもこころよく引き受けてくださると信じて。

 しかし、地蔵菩薩が『あなたは一度も三途の川に行ったことはないでしょう。そこには大勢の子どもたちが遊んでいます。あなたのお子が、ほかの子どもと区別のできる特徴があれば教えてください』と問われました。
 母親は、愛しいわが子のことですから 見分け方をくわしく話します。
 顔かたちや体の特徴や大きさ、ほくろの位置と傷跡までくわしく話しました。
 聞き終わって、地蔵菩薩がいわれました。
 『同じようなお子はたくさんいますよ』と。
 
 母親は困惑しました。
 子どものことを一番よく知っている自分が事細かく話しましたのに、見分けがつかないといわれるのです。
 母親は苦しみました。
 自分の話し方によって頑ぜない子を救ってもらえないかもしれません。
 
 その時、一番大切なものを思い出しました。
 それは、母親が乳を飲ます時や、おしめを取りかえる折りにもわが子の体臭をかいで、その臭いを覚えていることです。
 そこで、わが子の一番体臭のしみこんだ「よだれかけ」をお地蔵さまの首に奉納し、『この臭いがわが子なのです』と心を込めてお析りしました。
 お地蔵さまは、そのよだれかけを鼻にあてて、よくわかった」とうなずかれます。
 この臭いを頼りに、地蔵菩薩は三途の川原で迷う子どもたちの中から探し出し、よいところへと導いてくださると信じるのです。」

幼いわが子を失った母親の深い悲しみ。
胸が痛みます。
悲しくも黄泉の国に行ってしまった我が子を何とか導いて欲しいと願う深い母親の愛情、そしてその願いにこたえようとする地蔵菩薩の慈悲。
地蔵がかけているよだれかけには、そんな意味があると伝わるのです。



そんなよだれかけの意味を考えながら、手を合わせて地蔵さまのよだれかけをめくらせていただきました。
一直線に走る傷が確かにありました。
白く見えるのは傷をなぞったような線ですが、線の下には確かに傷があります。



背中側にまわってみました。
背中側にも確かに傷があります。



京都新聞の記事には続きがあります。
 「実は物語にはもう一つ別のストーリーがある。
 地蔵が化身となって現れたのは、娘が祈ったからではなく、寺侍が毎夜通る地蔵の前で手を合わせなかったため、という話だ。
 だが、人々の不信心への戒めという点はぶれていない。」

身近な場所に伝わる不思議な話って何だかとってもいいですね。
新しく文化的な住宅地の裏にひっそりと建つ石地蔵のいわれを知り、何だかとっても嬉しくなりました。



白川方面を目指します。
Uターンし、墓所の横の坂道をくだります。
コンクリート舗装されていますが、傾斜が急な上に落ち葉がかなり積っています。
車はもちろん、バイクでもこの道は通れません。
雨で路面が濡れれば、歩行者もスリップして危険。
晴れの日中に歩行者のみが通れる道ですね。



道端の石地蔵。
そういえば、先ほど見た「肩切り地蔵」は、以前には一体ではなく左右にも地蔵があったそうです。
もっとも、その話とこの地蔵との関連は不明ですが。



最後の急傾斜を下りきり、白川の里が見えてきました。



白川の里に到着。



金色院があった頃にはたいそう賑わっていた里ですが、今はとっても静かな白川の里。



私より1つ学年が下のkちゃんの実家。
kちゃんは、小柄で色が白くほっぺたが赤いとっても可愛い子でした。
今頃、kちゃんはどうしているんだろう・・・・・・・。



白山神社を目指します。



いい天気なのですが、とっても寒いです。
強い冬型で、愛宕山に雪が降っているのが視認できるそんな今日です。



金色院跡へ。



白山神社。
金色院跡から ほど近い場所にあります。



ひっそりと静まり返った境内。






強烈な階段。
残念ながら、お年寄りや足の不自由な人はたとえ地元の人であってもこの階段をのぼっての参拝はおそらくできないでしょうね。



階段を上がりきりました。



拝殿。
重文に指定されています。



拝殿の横には砲弾が2発鎮座。



白山神社の拝殿近くから下れば直接「モミジ谷」に行けることを、この日初めて知りました。
拝殿近くからモミジ谷へ。



間もなくモミジ谷を歩き終わります。



モミジ谷を出て宇治川左岸へ。
吊り橋に到着。



旧・志津川発電所の建物が見えてきました。
志津川発電所は、関西初の大出力水力発電所。
また、その志津川発電所のために建設された大峯ダムは、日本最初のコンクリート高堰堤ダムです。
そのことは鹿島建設HPの 「鉄道の鹿島」から「土木の鹿島」へ雄飛と いうページに詳しく記載されています。
以下はその記述の一部です。

 「鹿島組がはじめて施工した水力発電所は、明治42(1909)年の宇治川電気(関西電力の前身)・志津川発電所(京都府宇治市)であった。
 関西初の大出力水力発電所で、施主である宇治川電気は、勝手がわからないために信用の置ける業者である鹿島組に頼んで請け負ってもらうことにした(*7)。
 このとき鹿島組が担当したのは隧道と開渠水路。
 淀川水系宇治川から発電所へ水を引き込むための水路建設で、当時としては大工事だったため工事は大正2(1913)年までかかったが、この施工で鹿島組の信用は高まった。
 以降鹿島組は平等院(宇治市)近くに常設の出張所を置いて宇治川電気関係の工事を続けた。
 大正10(1921)年には二期工事で日本初の発電用ダム・大峯ダム(*8)を施工し、「ダムの鹿島」としての第一歩を踏み出す。」

大峯ダムの写真がある「鉄道の鹿島」から「土木の田島」への雄飛には、大峯ダムの写真の下に以下のような説明も記載されています。
 「大峯ダム(京都府久世郡)は日本最初のコンクリート高堰堤で高さ31m,長さ91m。1920(大正9)年〜1924(大正13)年」



旧・志津川発電所の建物の川に面した位置には、かつて存在した「おとぎ電車」の線路跡が残っているとされています。
これが、その線路跡と言われているものです。
ただし、これが本当に「おとぎ電車」の線路跡かどうかは分かりません。
宇治発電所のレンガ造りの建物の前面にも、これとほぼ同じものがありますしねえ・・・・。



放流管が見えています。
10倍ズームで写しました。



天ケ瀬発電所と、旧・志津川発電所。



少し高い位置から見ると、レールがよく見えます。



この位置からだと更によく見えます。
このレールが「おとぎ電車」のものかどうかは、「おとぎ電車の遺構探しウォーク」を進める中で明らかにできるはず。



旧・志津川発電所の建物に近づきます。
こんな看板がありましたが、訪問を完全に拒むものではなく「事故があっても土地所有者の関電は責任を負いませんよ。」との意味だと私は判断しました。
柵などはないので立ち入りはできますが、ここから先の行動については全てが自己責任の上でということになります。



旧・志津川発電所の建物は、今はこのニュージェックという会社が水理実験で使っています。



ニュージェックの水理実験用の設備らしきものが見えてきました。



柵内なので近づいて観察することはできません。
この中は、文字通り立ち入り禁止です。



旧・志津川発電所の建物前を通り過ぎると、あっけないほどすぐに水圧鉄管が通っていたコンクリート製トンネルが見えてきました。



コンクリート製トンネル内部。
写真を撮った直後にデジカメ液晶画面に「目をつぶっている顔を検出しました」との文字メッセージが流れました。
だ、誰やねんそれって?!
誰もいないって。
って言うか、今回新たに購入したデジカメは、時々そうした誤メッセージを出すことがあります。
これまでも何回かそうしたメッセージが出たことがありますが、新しいデジカメで人物を写したことはまだ一度もありません。
でもおそらく、被写体の中に人物の顔らしき形状の部分を感知し その顔の目にあたる部分が閉じられているとデジカメが判断した場合には、そうしたメッセージが出るようプログラミングされているんでしょうね。
デジカメを購入した直後には、風景しか写していない写真にそうしたメッセージが出るとドキリとしましたが、今は何ともありません。
洞窟やトンネルの中で写真を写すと、よくこのメッセージが出ることがあります。



苔むした階段が素敵です。



階段を上がってみることに。



次々と現れる遺構に胸が高鳴ります。



「近代化産業遺構」に指定されても決しておかしくない立派な遺構だと私には思えます。



柵がしてあるトンネルがありました。
立ち入り禁止の敷地内に、更に柵がしてある。
怪しい・・・・・。
なんてことはないですね。
きっと危険なんで柵がしてあるんでしょう。



柵があるトンネルに近づいてみました。
中は・・・・・・。
気になりますよね。
私が皆様の代表として、柵がしてあるトンネルの中を全てのぞいてみることにします。



こんな様子です。
柵の間にデジカメのレンズを入れると、こうして写すことができます。



二つ目の柵。
かなり大きなトンネルで、上部には柵がなく空間があります。



内部。
中からは水の音が聞こえてきました。
かなり危険なので、絶対に中に入ってはいけません。
穴は横だけではなく竪坑がある可能性もあり、中に入ったりしたら最悪のケースとして竪坑に転落ということすら考えられます。



三つ目の柵。
柵の間がやや広めです。



内部。
暗くぽっかりと口をあけ、直線的に続く先に下に急角度で落ち込む暗い空間がかなり不気味。



水圧鉄管跡をたどって上がっていきます。
ずっと向こうまで続く鉄管跡が見渡せる風景に感動。



素晴らしいですね。
足元が若干悪く、湿った土の中に足がめり込む場所もあります。
夏場なら虫や蛇の攻撃を受けることは確実な場所。
こんな場所は冬に訪れるに限ります。



「メガネトンネル」発見!



と思ったらそうではなく、何と!「三連装」のトンネルでした。



「三連装トンネル」の壁のコンクリート。
信じられないほど目が粗いコンクリートでした。



三連装トンネルを越えてさらに上がっていくと、次のトンネルの先は急角度で上に。
その傾斜は上がれそうもないので、「導水管跡をたどって進めるのはここまでだ。」と判断しました。



導水管跡を離れ、林道へ向かうことに。
途中でシカの糞を見つけました。
野生のシカの糞です。
とてもきれいな黒色で、しかも表面には光沢があり陽光を浴びてピカピカと輝いているではありませんか。
どう見ても糞などには思えません。
黒豆を甘く煮たものにも見え、思わず「お、おいしそう!」って。^^;
奈良のお土産というか名物に、「鹿のふん」(通称。正式名称は「御神鹿のふん」)というお菓子があることを思い出しました。
「鹿のふん」はチョコピー菓子ですが、私はずっとその発想というかネーミングに「趣味が悪いなあ・・・。」と感じていました。
でも、今日は何となくそのお菓子を作ろうと思った人の気持ちが分かったような気がします。
そういえば、お腹が減ってきたのでそれそろ昼ご飯の時間かも。



林道に着き少しだけ上り道を歩くと看板が。
その看板の裏を見ると、こんな「立入禁止」の文字が。
今までの立ち入り禁止区間はここまでで終わり、ここから先はフリーゾーンということです。
となると、この位置より上の方からここまで下って来る道があるはず。
そしてここからずっと上の、その更に奥は、かつての志津川発電所の水源池である大峯ダムがあった場所。



階段があったので上ります。



階段を上がると、枕砂池のコンクリート製の巨大な放流路がありました。
足元にはぽっかり開いた穴が。
先ほどの、トンネルの先が急角度で上に向いていた先は、どうやらここのようです。



高い位置から見下ろす大きな穴。
見た瞬間に、「あの穴に落ちたら絶対に助からんやろな。」と本能で感じました。
それほどスケールが大きいのです。
写真ではそのスケールの大きさは伝わってきませんが、様々な場所を訪れたことがあるし高所恐怖症でもないgodzillaの本能が危険を知らせるほど実物はスケールが大きく迫力がありました。



堰堤にはしっかりした構造の安全柵が設置されています。



堰堤の反対側にあった建物へ。
「天ケ瀬地殻変動観測所」です。
志津川発電所が廃止されてから造られた京大防災研究所地震予知センターの施設で、名前通り地殻変動を地球規模で観測しています。
2005年には、ここで観測し続けている無感地震を含む地震数が阪神大震災前と同じように減少。
逆に天ケ瀬ダム付近の岩盤の南北の縮み歪みは、それまでの2倍になっているとの報告が出されています。
長期間利用されており、設置されている観測機器によりデータの収集・蓄積が長期間行われています。
建物は小さいですが、日本の防災研究の拠点の一つと言えます。



文字が消えかかった「表札」。



広大な沈殿池の施設。



眼下には落ち葉がうず高く積もった施設も。



天ヶ瀬ダム完成時に廃止された志津川発電所。
経年により沈殿池からの取水口のコンクリートの劣化はかなり進んでいます。



志津川発電所方向ではなく、宇治川下流に向かう水路とトンネル。
志津川発電所に不要な余分な水の放流路だと思われます。



余分な水の放流路に向けてオーバーフローで水を流すと思われる設備。



少しだけ枕砂池の上流方向に。
まだ新しそうな碍子が転がっていました。
志津川発電所は廃止されましたが、「今でもこの辺り一帯は水力発電の拠点だ。」ということがとてもよく分かる風景。



枕砂池の上方向には水路がありました。
ここから上に行けば天ケ瀬ダム湖右岸に至るはず。
旧志津川発電所のために建設された大峯ダムもこの先にあったはずですが、その大峯ダムは天ケ瀬ダム建設に伴って天ヶ瀬ダム湖の下に沈んでしまっていて、残念ながら今はもう見ることはできないのです。



余分な水の放流路の右岸側に至り、下流方向に進みます。
大した危険はありませんが、転落したら救助の人が来ることはまずありません。
慎重に行動する必要があります。



余分な水の放流路。
極端に高くはありませんが、そこそこの高さがあります。



余分な水の放流路のトンネル部分に到着。
写真右に写っているコンクリート製手すりの右側(向こう側)が通れれば一番安全なんですが、木々が生い茂ってそこは通れません。
だから、コンクリート製手すりの上部斜面を巻いて向こう側に渡らなくてはなりません。
でもそうした場合、向こう側に渡った後に手すりが途切れている位置で下の道まで斜面を滑り下りる必要があります。
その時にバランスを崩すと、水路転落の危険がかなり大。
今来た道を引き返すという方法もありますが、結局、慎重の上にも慎重を期しながら放流路を横切ることに決めました。



放流路の反対側に渡り切りました。
計画通りコンクリート柵の少し上の斜面を巻いて渡りましたが、渡ってから下に降りる時がやはり一番危険で、最も神経を使いました。
それでもバランスを崩すことなく何とか無事に道まで降りることができ、ほっと一息。
それにしても、本当に素晴らしい遺構です。



元の道に戻りました。



今横切ってきた、余分な水の放流路方向を見ます。
さて!下山するか。



旧・志津川発電所の建物前通過。
小さなピアノのような音が、建物方向から聞こえてきました。
ニュージェックは今日の祝日は仕事が休みの模様で、普段は開いている入り口のシャッターはぴたりと閉まっていて無人。
「時報を音楽で知らせる時計が音を出しているのかな?」と思い時間を確認しましたが、まだ正午ではなく午前11時45分と中途半端な時間。
天ケ瀬ダムの上には、広報ビデオを映す超大型テレビ設置してあります。
そのスイッチを、おそらく誰かが押したんでしょう。
そして、その広報ビデオの大きな音量の一部が流れて聞こえてきたと考えるのが一番妥当ですよね。



宇治川に戻って来ました。
宇治川右岸を下流方向に南進。



新洛巽亭前を通過。



新洛巽亭の客室。



民宿「亀石」の客室。



民宿「亀石」前を通過。



不思議な言い伝えがある亀石。



亀石の説明。



観流橋の南詰には、大正3年10月に設置された宇治発電所の竣工記念碑。



1.水路総長 6137間
     隧道 5070間
     暗渠  440間
     開渠  627間
1.最長隧道 第1号 1357間
         第7号 1658間
1.使用水量 1秒時2000立方尺
1.有効落差 204尺
1.機械容量 48000馬力
1.送電線路 大阪線 22哩    京都線  8哩
1.工事費総額 1600万圓
1.工事着手 明治41年12月
1.工事竣功 大正2年6月


  大正3年10月
  宇治川電気株式会社

そう刻まれてあります。



記念碑の裏側には工事関係社員の名前がずらり。



観流橋。



宇治発電所の放流路。
ん!?何か白いものが・・・・。



ズーム。
鳥でした。



塔の島へ渡るために朝霧橋へ。



塔の島に到着し、宇治川派流をの〜んびりと進む観光船を眺めながら歩きます。



塔の島から観流橋をズーム。



喜撰橋下の宇治川左岸船着き場に到着。
先ほど見かけた観光船が戻ってきました。



宇治公園をあとに。
右翼の凶刃に倒れた労農党代議士の山本宣治氏の墓所にお参り。
さて帰路に。
過ぎ去った時代のことなど考えながら歩くことにしょうかな・・・・。



私は高校生の頃、歴史の勉強が大嫌いでした。
その理由は、「暗記のみの勉強」としか思えず何の面白みも感じなかったから。
でも今は歴史が大好きに。
歴史って、そして身近にある歴史遺構って、本当に興味深いと感じるこの頃なのです。

この日のウォークでは、「おとぎ電車」と直接関係はないものの、関連がある志津川発電所跡を探訪することができました。
でも、「おとぎ電車」の遺構は何一つ見つけることはできませんでした。
「おとぎ電車」の遺構なんて、本当に今でも残っているのでしょうか?
残っていないなら残っていないで、それをはっきりさせることができればいいなと思います。
「おとぎ電車」の遺構を追うウォークを今回から始めることになります。



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