今日は、「八幡軍人病院」と間違った認識でとらえられている八幡市のパゴダ跡に、追加調査のため訪問。
一帯は立ち入り禁止措置が取られており、私有地でもあるため無断で立ち入りをすることはできませんが、私は関係者の方の承諾を得たうえで再訪しました。(無断で訪問した場合には処罰対象になるのでご注意ください。)

訪問の目的は、「軍人病院の地下室」あるいは「防空壕」とされる場所の調査と、そして立像の足元付近にある六角形の石柱の調査の二点。

本日のウオーキング歩数、16,492歩。(うちエクササイズウオーク11,423歩)、消費カロリー572kcal、燃焼脂肪量30.0g。


2011年12月18日(日)




杉山谷不動尊に到着。



男山ケーブルの雄大な橋脚が見えてきました。



湿気が多い谷筋には、夏にはマムシがウヨウヨ。
この立て札を見るたびに、違う意味での危険さを感じます。
それは、マムシはトグロを巻かないからこの絵が間違っているということ。
マムシはジャンプ力があるしそれを活用してこそ敵を倒すことができるので、絶対にとぐろは巻かずにS字型で草むらに潜んでいます。
そういう意味では、とぐろを巻くヘビは安全性が高いかと。
この立て札を見て、子どもが「とぐろを巻くヘビは危険。」と考えてしまわないか、もっと言えば「とぐろを巻いていないヘビは危険ではない。」と考える子どもがいるのではないか、気にかかるところ。
32年間小学生の子どもに接する仕事をしてきた経験から考えると、「とぐろを巻いていないヘビは危険ではない。」と考える子どもが少なからずいるはずです。



男山ケーブルの橋脚の真下を通過。



美しい紅葉と、日本一高い雄大なケーブルカー線路の橋脚。
それが同時に楽しめるのは、日本広しといえどもここしかありません。



紅葉を眺めながらゆっくり歩きます。



上の写真の紅葉をズーム。
フルズームではありませんが、上の写真とは全く違って見えます。
今月東京に行った時にデジカメの電池が無くなりやむなく買ったデジカメですが、そのデジカメは光学10倍ズーム。
光学10倍ズームの威力を実感。



杉山谷不動尊の本堂に到着。
本堂前の説明。
「怪異なる事象」「妖怪」などの文字が読み取れます。



本堂横の建物。
普段は固く扉が閉められているんですが、この日はなぜか扉が開いていました。



杉山谷不動(谷不動)をあとにして、神応寺方面へ少し標高を上げます。
いい天気になりました。



何とも素晴らしい風景。



狭い谷なので、こんな雄大な風景があることを知らない人も多いかもしれません。



今年は結局、どこにも紅葉狩りに行けませんでした。
でも、この風景だけで十分満足です。



今日見た橋脚の風景で一番気に入ったのがこれです。



男山ケーブルの線路が見える場所まで上がってきました。



この角度から見る方がいいですね。



ネット上で「八幡軍人病院の地下室」あるいは「防空壕」などと呼ばれる構造物にやって来ました。
これっていったい何だろう・・・・・?
パゴダ跡の建物からは直線距離で10メートルほど離れています。
ネットではこれが「軍人病院の地下室」となってしまったりすることもありそのいい加減さに呆れますが、もちろんこれは地下室ではないです。
防空壕?
市街地から離れた山の中ですので、防空壕を造る場所としては極めて不適切。
パゴダにいる人のための防空壕かなとも思いましたが、構造躯体が露出しており爆撃されると爆風をもろに浴びることになるので、防空壕でもないですね。



上部。
40cm×90cm位の四角い穴が開いています。



中をのぞくことに。
内部の構造はどうなっているんだろう・・・。



上部に開いている穴から中を見ます。
深さは1.6メートル〜1.8メートルくらいでしょうか。
はしご等がないのでないので入って出られなくなる可能性があり、内部にガスがたまっていないかどうかの確認もできません。
外部からの調査にとどめます。



内部全体。
3畳ほどの広さがあり、土間になっています。
中央付近にブロックで組んだかまどらしきものがあるなど、若干の生活臭を感じます。
ただ、こんな中で火を焚くことは実際にはできないでしょうね。
酸欠の恐れもあるし、何より煙で呼吸困難になることは明白。
実際に火をたいた痕跡はありません。
一見すると構造的に床が土のようにも見えます。
でもこうした構造物は、床を土にした方がいいという特別な理由がある時以外は、底辺もコンクリートで造ることが多いもの。
マスを伏せた形のように底がなくて底が地面なのか、あるいは底もコンクリートなのに土がたまってコンクリートが見えていないだけなのか。
見ただけでは判別できませんでした。



構造物からパゴダ跡を見下ろします。
構造物は、パゴダより高い位置に設置されています。



パゴダ跡へ下ってきました。



既に解体されてしまったパゴダ跡。



パゴダの建物は真四角ではなくいくつかの四角形がくっついた形。
その外周。
建物の長さではなく建物の一部の長さが10メートルをはるかに超えています。
かなり大きな建物だったことが分かります。



建物の周りを一周することに。



ボイラーらしきもの。



ボイラーについていた札。
「巴商会」と読めますが、巴商会というボイラー会社は今でも存在しています。
確認はしていませんが、おそらく現存する巴商会が過去に製造していたボイラーだと思われます。






この位置から見ると、建物が真四角でなかったことがよく分かります。
向こう側に見えている基礎と、こちら側のこの基礎とはつながっています。
四角形に別の四角形をいくつかくっつけたような形の建物だったようです。



階段がありました。
写真の左側が斜面下側、つまり京阪電車八幡市駅側になります。
駅方向から上がってきた人が この階段を通りパゴダ内に入る、そんな構造だったようです。



階段を正面から見ます。
いったい何人の人がこの階段を通ってパゴダ内に入って行ったんでしょうか。
建物は未完成のまま放棄されましたが、それでも工事の人を除いても少なくない人がこの中に入っていったことでしょうね。



ボイラーがある付近まで戻ってきました。
タイル張りの小さな部屋が並んでいる場所がここなので、おそらくボイラーはここで使うお湯を沸かす設計だったんでしょうね。



給水用と思われる配管跡。
解体された建物跡にツタが生えてきたような感じがしますが、そうではありません。
建物横に生えていた木が、建物の壁が倒れた時にいっしょに倒れたもの。
その木がまだ枯れていないことから、ここパゴダ跡が解体されたのはごく最近であるということがうかがえます。



タイルの部屋跡。
ボイラー横のこの位置に、こうしてタイル張りの部屋がずらりと並んでいました。
倒れている壁に開いているのは窓で、タイル張りの部屋一つに一つの窓がついていました。
こうして見るだけで、タイル張りの部屋が少なくとも4つはあったことが分かりますね。






ボイラーを上から眺めます。
さて、パゴダ跡の次に石像の所に行かなくては。



パゴダ跡から広い道を通り少しだけ坂を下ると、ここ石像の場所に着きます。
いい天気なんですが、うっそうとした木々に覆われたこの一角は「昼なお暗い」って雰囲気。



石像。



八卦のような六角形の石柱。
「京都御所」「身延山宮城」「伊勢大廟」「樫原神宮」の文字と、そして東西南北の方角が刻まれています。



石柱の側面には「遙拝指針」と刻まれています。
遙拝とは遠く隔てた所から拝むという意味ですので、この石柱を参考にするとこの場所から4ヶ所の遙拝をすることができるということなんでしょう。



石像と石柱とは離れています。
両者の関係の有無は不明。



石像の後ろ側。
真一文字に線が入っています。
二つの部分を組み立てて石像を建設したんでしょうか。
さて、これにてパゴダ跡の再調査は完了。



「こもれびルート」へ。



天気がいいので、八幡市駅へ延びる男山ケーブルの線路がとっても綺麗に見えています。



抜群の展望。
写真中央やや左よりのタンク群は、城南衛生管理組合の沢清掃工場。
上部のやや高く出っ張りがある山は醍醐山。
左端の中央がへこんだ感じに見える山は比叡山。



標高を下げます。






神応寺から谷不動に下る参道右側にこんな物があります。
前から「何だろう?」と思っていたものなんですが、大きさや形が今見てきたパゴダ跡の少し上にあった構造物とほぼ同じだと気付きました。



参道のはき掃除をされていた女性に声をかけ、中を見せてもらうことに。



上部には、パゴダ跡の上にあった構造物とほど同じ形で大きさも40cm×90cm位とほど同じの穴が開いていました。
中を見ると、水がたまっていました。
水がたまっているということは、底は土ではないということです。
となると、パゴダの少し上にあったこれと同じ構造物も底は土ではなくコンクリート製なんでしょうね。
更に下る途中で谷不動本堂におられた方が歩いておられたのを見かけたのでこれが何か尋ねましたが、「水槽やろ。よく知らん。」とのことでした。^^;



谷不動を後にして、国の重要文化財に指定されている航海記念塔へ。



航海記念塔の説明。
これが航海記念塔という名前であることも、「パゴダ跡が海軍病院と呼ばれたりする要素の一つかな?」とも私には思えます。
さて、神応寺駐車場に戻り、帰路に。



「八幡軍人病院」と世間では呼ばれることが多い場所の調査が、また少しだけ進みました。

「軍人病院の地下室」あるいは「防空壕」などと呼ばれるあの構造物は、その後の関係者からの聞き取りで「防火タンク」と判明しました。
戦前には、谷筋などをはじめ防火用の大量の水が得にくい場所で、かつ近くに住宅地や大きな建物がある場合には、その近くにコンクリート製の防火タンクを造ったことがあったようです。
パゴダ跡の少し上にある防火タンクはパゴダが火災を起こした時に使うためのものでした。
そして谷不動と神応寺との間の参道脇の防火タンクは、おそらく谷不動が火災を起こした時に使うため設置されたものなんでしょうね。

そうした防火タンクは、戦前には京都だけでなはなく全国的に設置されていた模様。
2011年6月17日の河北新報に、「今年3月の大震災で、岩手・山田に戦前からあったコンクリート製の四角いタンクに100メートル先の井戸から引いた水が約6トン満たされており、津波で救援が来ない人々の『命の水』となった。」という記事が載りました。
そのタンクは高さ2メートル奥ゆき3メートルのコンクリート製で戦前から存在していたもの。
新聞の写真は防火タンク全体が写っておらず断言できないものの、それでもパゴダ跡や神応寺参道脇にあるタンクとほぼ同じ大きさ・形状。
コンクリート製の防火タンクだということから考えると、八幡と岩手のものは同じであることはほぼ確実。

それと私はまだ現地確認していませんが、防火タンク以外のことでもうひとつ明らかになった事実があります。
関係者からの聴き取りで分かりました。
それは、パゴダ跡で道は行き止まりになっているではなく、パゴダの先には更に山頂方向に延びる広い道が建設されていたということです。
道の建設跡は今は草木に覆われていますが、地形的には明らかに道路建設の跡だとはっきりと分かるとか。

今回の訪問も、収穫の多いものとなりました。




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