今日は、二日前の山背古道の続きを歩きました。
二日前の山背古道ウォークは、デジカメの電池切れで途中で中止。
今日のその続きのウォークは、時間があまりなかったことと井手町で道を大きく間違ってしまったことが原因で、多賀までで終了せざるを得ませんでした。
秋の山背古道は素晴らしい顔を私に見せてくれました。

本日のウオーキング歩数、36,540歩。(うちエクササイズウオーク30,597歩)、消費カロリー1,310kcal、燃焼脂肪量88.9g。


2011年10月10日(月)




まずは、前回のウォークを中断した場所である上狛を目指します。
JR上狛駅に行くため、ウォークでJR奈良線の新田駅へ。
宇治駅発と新田駅発とでは上狛までの運賃が違うため、経費節減を目的に宇治駅でなく新田駅から奈良線の電車に乗ることにします。



JR奈良線の城陽駅行きに乗り、城陽駅へ。
城陽駅で奈良行き電車を待って乗りこみ、JR奈良線上狛駅に到着。



上狛駅を出てすぐ左手にある小さなお店。
何回かテレビでも紹介されたことがある結構知られたお店なのです。



駅前に立っている山背古道のマーク入り案内標柱。



駅前通りにある建物。
とっても歴史がありそうな建物です。



山背古道に到着。
山背古道沿いにあるこの建物は民家ではなくお店。



まず最初に上狛環濠集落の大井戸に寄ってみることに。



大井戸をあとにして、二日前のウォークを打ち切った場所に。
上狛小学校横の公園です。
公園からは、こんな建物がよく見えています。



上狛小学校の校門横にある像。



小林家住宅に寄ろうとして山背古道を北上。
でも、山側に入っていく地点まで進んでも小林家住宅の案内板が見当たりません。
小林家住宅は、その案内板が山背古道を歩いていると見えるはず。
上狛小学校近くまで引き返し、小林家住宅への道を見つけました。
案内板が見つからなかったわけが分かりました。
案内板が立っていた交差点角の家が工事中で、工事に伴って案内板も撤去された模様。
小林家住宅へは、この写真の小さなお寺「廻照寺」の少し手前(南側)の小さな道を東側に入っていきます。



山背古道からも小林家住宅の屋根が見えていますが、山背古道から50メートルほど入るとこの小林家住宅の玄関に着きます。



京都府指定文化財の「小林家住宅」。
大屋根が迫力あります。



小林家住宅の説明があったので少しだけ敷地内に入らせていただき、説明を読みます。



築300年の建物で、江戸時代の初期1665年に建設、南山城では最も古い民家です。



現役の住宅なので当然ながら建物の中に入らせていただくわけにはいきません。
内部は、主屋・土蔵・長屋門からなり、主屋は土間と座敷で、その座敷は4つの部屋に分かれているそうです。



大きな屋根が小林家住宅の特徴。



大屋根の東側。



大屋根の換気口をズーム。



大屋根は茅葺き。
一番高い場所は、こうして少し高くなるように茅が葺いてあります。



小林家住宅の見学を終え、山背古道を少し北上。
時刻が正午を過ぎましたので昼食を摂ることに。
椿井南公園で持参した昼食を広げます。
昼食メニューは、減塩塩コンブ入りおにぎり3個、ホッケの味醂漬け、それにカップ天そばです。



腹ごしらえ完了し、そろりとウォーク再開。。
椿井南公園の民家にユニークな瓦がありました。



JR奈良線の線路を越えます。
奈良線は単線なのでで線路は1本しかありません。



松尾神社へ寄るってみることに。
収穫が終わり脱穀を済ませたワラが干してあります。



とってものどかな風景を眺めながら松尾神社を目指します。



程なく松尾神社に到着。
山背古道から600m程でしょうか。
か、階段がありますがな。(+o+)



110段余りの階段を汗だくで上がり、本殿前へ。



本殿手前の建物の天井には、とても古そうな絵が描かれた額が数多くかかっていました。



本殿へお参りします。



神社境内にこんな石碑がありました。
「町制」というのは、ここは旧・山城町なので「山城町になった。」ということでしょうが、この石碑は町制が施行されたことを喜ぶ人々の心がとてもよく表われています。
町制施行の喜びを神社境内に石碑として残すということは、この神社が人々の生活の中に溶け込んでいたってことでしょうね。
山城町とその名前は「広域合併」でなくなってしまいました。
広域合併は「地方分権の逆行になりかねない。」などと批判されるなど、様々な課題をはらんでいます。
私の好きな山城町は、今は木津川市という「山城町の地域の特色を何ら表していない。」としか思えない何とも味気ない名前になってしまいました。



松尾神社の説明。



山背古道に戻り、更に北進。
椿井大塚遺跡へ寄りたかったのですが、時間があまりないので下から眺めることに。



椿井大塚遺跡近くにこんなものが。
懐かしい・・・・。



路傍の栗の木の実が見事に熟れていました。



椿井大塚古墳をあとにしさらに北上。
春日神社に到着。



境内の石灯篭。
この灯篭の模様は、蝶の形を模したもの。



春日神社にお参りしてからさらに北上。
神童寺の案内が。
神童寺には一度も行ったことがないのでできたら今日行ってみたかったのですが、残念ながら時間がありません。
断念し、次回まわしということに。



JR奈良線の棚倉駅近く。
「線路内立入禁止」の看板が立ちながらも、柵の一部が開いていて横断可能な状態。
踏切まで遠い人の便宜を図るためのものでしょうが、こんな看板が。
事故に関しては「完全な自己責任」ってことで、ここの線路横断は黙認されているんでしょうね。



和伎神社(湧出宮)へ。
766年に伊勢神宮から祭神を遷しましたが、その時一夜にして森が湧き出したので「湧出宮(わきでのみや)」とも呼ばれています



広大な境内。
突き当たりを更に左側に進んだ位置に本殿がありますが、今日は工事中でした。
参拝を断念。



棚倉駅前へ。
駅前の蟹満寺のモニュメント。
何度見てもこの蟹に違和感を覚えます。
だって蟹満寺の話に出てくる蟹は沢蟹。
でもこの蟹はどう見ても鍋物などに使うもの。



棚倉駅前から少し北進しJR奈良線の踏切を渡ります。
北側には天井川である不動川の下をくぐるJRのトンネルが見えています。



天井川のトンネルをズーム。
同じ場所で写した上の写真と比べると、光学7倍ズームの威力を実感します。



ドンドン北上。
こんな生活臭漂う場所も山背古道の一部なのです。



不動川の岸辺に。
蟹にまつわる民話が描かれているものが設置されています。



不動川。
民家の二階の屋根と比べると、川が天井川であることがよくわかります。



素晴らしい風景。



いいですねえ・・・。



この日のウォークで、なぜ私達が山背古道を好きになるのかが少しわかった気がします。
沿線のこんな風景を見ていて感じました。
私達がかつて日常的に見ていた風景は、高度経済成長の頃から急速に失われた気がします。
当時の風景は山背古道のこんな風景と必ずしもイコールではありません。
でも、かつての私達の周りに普通に存在していた家並みやその雰囲気が、山背古道を歩いてこんな風景を見ていると何となく漂ってくるのを感じるのです。
加えて、農耕民族のDNAに影響され、こんな風景を見ていて心が安らいでくるのかもしれません。



山背古道の風景を楽しみながら歩いていると、蟹満寺に到着。
蟹満寺は工事中のため、正面の山門ではなく東門から境内に入りました。
新築なった本堂を正面から眺めます。
住職の息子さんが私を見て「ようこそお参りくださいました。」と声をかけてくださいました。
住職の息子さんは、小さな女の子をその子の家まで送っていく途中のようでした。



蛇に巻きつかれた蟹の額。
旧本堂には正面に掲げてありましたが、新しくできた本堂では正面でなく建物の横に掲げてあります。



境内には、蟹をデザインした様々な物が。
これは、訪問者がお寺の方を呼ぶ時に叩くもののようです。



これは傘立て。



蟹満寺境内。



「悟りなど知らない蟹でさえも恩を受ければその恩を返す。ましてや人なら受けた恩を決して忘れてはならない。」という意味のことが書かれていました。
本当にその通りだと思えてきます。



境内はさほど広くありませんが、周囲の風景を借景として取り入れとてもゆとりを感じる風景が広がります。



石柱にも「蟹類」の文字が刻まれています。



蟹満寺をあとにして歩を進めます。
路像に石地蔵様がおざらっしゃる。



山背古道の案内石柱。



橘諸兄公旧跡へ行くため、山背古道から離れました。
橘諸兄公旧跡前の崖にこんなものがありました。
井手火山灰層というのは、今からおよそ180万年前の信州の火山噴火によりできた地層だそうです。
10年前の2001年11月に池田俊夫さんという方が発見されました。



井手火山灰層。
表面が削られ白い地質が露出している部分でなく、その少し上の茶色い部分が井手火山灰層のようです。



橘諸兄(たちばなのもろえ)公旧跡。



山背古道まで戻り、更に北進。
宮本水車跡へ。
この水の流れはいくら日照りが続いても枯れることがありません。
ここにかつて存在していた水車はその水を利用して動いており、その水車は戦後になってもなお動きつづけていたのです。
精米、製粉、牡蠣殻の破砕など、一年中全く休むことなくコットンコットンと水車は音を立てて動いていました。
ところが悲劇がこの水車を襲います。
1953年8月15日にこの地方を襲った大水害です。
その水害により、付近の大正池が決壊するなどこの辺り一帯に甚大な被害が発生しました。
大正池の決壊で池より下の人家も流され、人的な被害も数多く発生。
赤ちゃんが水面に浮いたまま流されていく姿など悲惨な光景も多数目撃されたようです。
その大水害の時に、ここにあった水車も水車小屋ごと跡かたもなく流出。
水害後水車は再建されることなく、それ以来この地から水車の姿が完全に消えてしまい今日に至ります。



かつて水車を動かしていた水の流れと、そして残されている石臼で、かろうじて往時をしのぶことができます。



宮本水車跡近くには神宮杉が。



ここは一体何でしょうか。



宮本水車跡からほど近い所には「大安寺旧境内内附石橋瓦窯跡」があります。
道路整備と町施設建設に伴って発見され、橋梁の下に保存されることになりました。



フェンスで囲んである場所のようですが、遠目なのでよく分かりません。



豊かな風景を眺めながら歩を進めます。



玉津岡神社と地蔵院に至る坂道を少し上り小野小町塚に到着。



平安時代前期の女流歌人小野小町は「絶世の美女」とされています。
冷泉家記には「小町六十九才井手に於いて死す」と記されており、晩年を小町がこの井手の地で過ごしたことが分かります。



玉津岡神社と地蔵院への長い坂道と階段。
時間がないので、今日はここからのお参りとします。



更に進みます。
ところが・・・・・・・。
何度も何度も来ているので地図を持参しなかったんですが、ここから先で道を大きく間違ってしまいました。



あちこちさ迷い、結局木津川の流れと山城大橋が見えるJR奈良線の横の道路まで下ってきてしまいました。
秋祭の神輿を眺めます。
この地点で「山城勤労者福祉会館」の案内板を見つけました。
山背古道は山城勤労者福祉会館の横を通ります。
何とか山背古道に戻ることができそう!



山城勤労者福祉会館への道はずっと上り坂。
汗をかきかき坂道を登ります。
「良弁の滝」を発見。
奈良時代の僧、良弁僧正がこの辺りと縁があったことで、その良弁僧正の徳を慕ってこの滝に「良弁滝」と名前が付けられたようです。
ただ、その切には異論もある模様。



「良弁の滝」と刻まれた石柱。



路傍の自然石(?)の石仏。



標高を上げきり、山城勤労者福祉会館付近に到着。
何とか山背古道に戻ることができたものの、そろそろ時間切れかな。
今日は午後4時半までに自宅に帰っていなければなりません。
山背古道を歩きながら標高を徐々に下げていきます。



標高を下げ切りました。
山背古道は更に高神社方向に伸びていますが、完全に時間切れ。
山背古道を離れ、JR奈良線の山城多賀駅に到着。
立派な建物の山城多賀駅ですが、奈良線では唯一の昼間無人駅。
奈良線の他の駅は昼間は有人ですが、宇治駅など大きな駅を除くと南部の駅の多くが夜間8時過ぎには無人になってしまいます。
とってもローカルな奈良線なのです。



山背古道。
歩けば歩くほど、その魅力を強く感じるようになる実に不思議な道。
山背古道には、多くの人が今はもう目にすることができなくなってしまった懐かしい風景が、随所で見ることができます。
素晴らしきかな山背古道。



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