東京へ行きました。
目的は転居した長女の新しい住まいを訪問することと、そして長女が生んで我が家で世話していた赤ちゃんに会うこと。
東京のホテルで一泊した二日目のこの日、「東京の怪異ゾーンめぐり」をしました。

怪異ゾーンめぐりをした理由は、私が現役教師だった今年の3月まで担任していた子ども達と図書室によく行っており、そこで東京の怪異ゾーンに関する本や絵本を数多く読んだから。
「怪異話に関連する場所が今でも残っているなら、ぜひともそんな場所を見てみたい。」と考え、実行しました。
慣れない地のことゆえ東西南北さえ分からなかったので苦労しましたが、半日という限られた時間にしては計画予定地の半分以上は探訪することができたという大きな成果がありました。


本日のウオーキング歩数、30,402歩。(うちエクササイズウオーク22,970歩)、消費カロリー1,048kcal、燃焼脂肪重量60.3g。

2011年8月24日(水)




これ1枚だけは前日(2011年8月23日)に京都駅で写した写真。
往路は、京都駅からは「ぷらっとこだま」で行きました。
「こだま」だから古い車両なんだろうなあ・・・・。
そう思っていたんですが、意外にも「こだま」の車両は700系でした。



前日は娘の新しい住居を訪問。
夜は「ルートイン五反田」泊まり、早朝より行動開始。
「四谷三丁目」で下車しなければならないのに、間違って「四谷」で下車してしまいました。
再度 電車に乗る程の距離でもなさそうなので「四谷三丁目」を目指して速歩。



「四谷三丁目」に到着。
「四谷三丁目」の交差点を左折し最初の訪問地である笹寺を探しますが、見あたりません。
持参した地図では、旧甲州街道の四谷三丁目の交差点で左折し、右側の路地に入ったところに笹寺があるはず。
さんざん探した揚句、旧甲州街道沿いの韓国大使館横から入る入り口をやっと見つけました。



笹寺(正式名称は長善寺)。
「笹寺」の呼び名は、昔この辺り一帯が広い笹原だったことに由来するようです。



江戸時代に栄えたお寺にはよくある万霊塔。
無縁となった墓石を積み上げたもの。
こんなもので、お寺の歴史の一端がうかがえるのも興味深いもの。



境内には「稲妻小僧」の墓所があります。
稲妻小僧は本名を坂本慶次郎と言い、紳士を装いながら(伊藤博文の隠し子だと自称して行動)凶悪犯罪を繰り返した明治の凶悪殺人犯。
34歳で絞首台に上りこの世を去りましたが、その犯罪の見事な手口から劇や小説に何度も取り上げられる有名人になりました。
ちなみに。
godzillaがこの4月から就いた新しい仕事場の人に、みんなが集まっている場でその名前を知っているか尋ねたら誰一人知りませんでした。
まさに「明治は遠くなりにけり」ですね。



旧甲州街道へ戻りました。
韓国大使館が極端に厳重に警備されていました。
隣接する笹寺境内にまで機動隊員がいるほど。
写真に写っている機動隊員は、韓国大使館前の道路にバリケードを設置しています。



笹寺をあとにして四谷三丁目方向に向けて旧・甲州街道を歩きます。
こんなものがありました。



「お岩水かけ観音」です。
お岩さんゆかりの旧・田宮屋敷をはじめとする四谷左門町は、戦災で大きな被害を受けました。
焼失したお岩稲荷は、お岩さん(祟り神でなくお岩さんは貞女だったのです)を信奉する人々の努力・尽力で再建されましたが、その再建に尽力した中心人物だった一人の方が、ご自分の店があるここにこの観音さんを建立したのです。
※お岩さんが祟り神でなく貞女だったことはこの後で、詳しく書きます。



お岩水かけ観音。



再建されたお岩稲荷へ。
於岩稲荷田宮神社は静かな住宅街の一角にありました。



「お岩稲荷」でなく「於岩稲荷」でした。



於岩稲荷田宮神社境内へ。
ここは、田宮家の屋敷跡です。
江戸時代初期、貧しかった武家である田宮家を、婿養子をとった上で復興させた中心人物がお岩さん。
そのお岩さんが深く信仰した小さな稲荷社が、田宮屋敷の敷地内であったこの付近にありました。
それが、この於岩稲荷田宮神社の前身です。



於岩稲荷田宮神社のさい銭箱の前面にある陰陽匂玉。
田宮家の家紋です。



於岩稲荷田宮神社の小さな社に貼られていた、一龍斉貞水さんの「立体怪談」のポスター。
社は田宮さんちの家の一部にあり、面積にして田宮さんちの住居の半分以下程度になって鎮座しています。



怪談がらみの歌舞伎の説明新聞記事コピーも貼られていました。
田宮家を再興させたお岩さんの幸にあやかろうと詣でる多くの人のために、小社は「於岩稲荷神社」として100年後に独立しました。
しかし、それから更に200年後の文政時代に、「東海道四谷怪談」という、実際に起こった様々な事件などをごちゃ混ぜにして脚本が書かれ、その中心人物に、実在した「お岩さん」という名を使った怪談歌舞伎が流行りました。
お岩さん役を演じた三代目菊五郎さんが於稲荷田宮神社を参拝しそのことを盛んに喧伝したため、於岩稲荷田宮神社は一躍有名になりました。
「ここに詣でずに芝居を打つと犠牲者が出る。」などとされるようになったのもこの頃です。
結論を言うと、お岩さんは実在し「於稲荷田社」も存在したのですが、お岩さんは祟り神などでは決してなく実際には田宮家の再興に尽力した貞女だったのです。



稲荷神社ですから様々なお稲荷様が。
でも、京都の伏見稲荷社を何度も参拝している私には、こんなお稲荷様の表情もとっても素敵に思えます。



「お岩さま」などと書いてあるとおどろおどろしい気がしますが、決してそうではないのです。



於岩稲荷田宮神社に奉納されている、テレビ東京の「新四谷怪談」の提灯。
於岩稲荷田宮神社近くの左門殿横丁は、何と!通称「鬼横丁」。
お岩さんが嫉妬のあまり夜叉となって駆け抜けた道だという話も語られているゆえらしいですが、その話は間違いなく京都の「丑の刻参り」の内容。
そんな話は、貞女お岩さんとは全く無関係。
蛇足ですが、歌舞伎、なかでも怪談歌舞伎は装置がどうしても大掛かりになりがちで、大きな事故が起きやすいという実態があります。
必然的に事故が続発し、そのことも「祟り神・お岩さん」との話がまことしとやかに語られる一因になったと思われます。
蛇足をもう一つ。
「鬼横丁」沿いの家では、物が物理的理由がなく動くいわゆる「ポルターガイスト現象」がある所もあるとされています。
本当に物理的理由がないのかどうかは不明ですが、少なくとも仮にポルターガイスト現象があったとしても、それは絶対にお岩さんのせいではありません。



数は少ないですが、多種多様なお稲荷様が。



於岩稲荷田宮神社のほぼ向かいにある、日蓮宗陽運寺(立正殿於岩稲荷)。



境内へ。



写真右上に井戸が見えます。
ここ陽運寺は、於岩稲荷田宮神社と同じく田宮屋敷内にあった社。
お岩さんが生まれた場所とされ、写っている井戸はお岩さんが産湯を使った際の水を汲んだ井戸とされています。
陽運寺は、於岩稲荷田宮神社と「本家争い」をしているそうですが、ややこちらが劣勢だとか。(真偽のほどは不明)



由来書き。



陽運寺をあとにして、丸ノ内線に乗車。
茗荷谷駅で下車しました。
茗荷谷はその名前通り、谷筋で茗荷が多く栽培されていました。
起伏の多い土地です。



駅から5分ほど歩き林泉寺へ。



林泉寺境内には、「縛られ地蔵」様がおられます。



江戸前期に造られた石仏の縛り地蔵。
地蔵様を荒縄で縛って「厄除け」「盗難除け」の願をかけます。
あまりにも縛られ過ぎて、地蔵様の体はおろか顔さえも全く見えません。(@_@;)
荒縄が手すりに掛けてあり「寸志をお願いします」と書かれていたので、私も願かけのために寸志を筒に入れて荒縄で縛りました。
他人のウエストサイズを測るように、片手で縄の先を持ち、胴体の向こう側からもう片手で荒縄の先をつかもうと思ったのですが、サイズが大きく手が届きませんでした。
そこで、縄跳びするように荒縄を両手で持って、背中側から頭上を通り越して地蔵様の体の向こう側に荒縄を通して縛りました。
江戸時代の庶民信仰が今に伝わるとは、とっても興味深いものです。
江戸時代の地史や社寺・名所などの歴史などをが書かれた「江戸砂子」には、縛られ地蔵の他、地蔵を縛るだけでなく散々叩いて願いをかなえるように強要する風習もあったと記されているから驚き。



林泉寺をあとにして、至近の深光寺へ。
路面に案内が書かれているので、地図なしでも迷うことなくたどり着きます。



滝沢馬琴の墓の説明。
そう、ここ深光寺には、滝沢馬琴の墓所があります。
滝沢馬琴は「南総里見八犬伝」で有名ですね。



滝沢馬琴の墓所。



刻まれた文字。
「著作堂」の文字が見えます。



馬琴は、10歳の時に家督を継ぎ松平家に仕えましたが、癇癪持ちの主人の扱いに我慢できず15歳で松平家を去ります。
その後 放蕩三昧の生活を送りますが、24歳で名戯作家・山東京伝の門を叩き弟子に。
そこで、歌麿や写楽を発掘したことで有名な版元・蔦谷重三郎と出会います。
やがて独立し、会田百と結婚します
会田百と結婚した後は、馬琴はそれまでの放蕩三昧の生活を改め、妻やそして結婚翌年に生まれた子どものために真面目に仕事をするようになりました。
先ほど訪れた於岩稲荷田宮神社ゆかりのお岩さんも貞女でしたが、良い女性にめぐり合うと男性の運命・人生は変わるんだということを痛感します。
蛇足ですが、馬琴は本名を滝沢興邦(たきざわおきくに))と言い、後に滝沢解と改めましたが、ペンネームは曲亭馬琴でした。
そのペンネームだった曲亭馬琴は「きょくていばきん」でなく、「くるわでまこと」と読みます。
「くるわでまこと」の意味は、「お遊びの場の廓でまじめに遊女に尽くしてしまう野暮な男」という極めて自嘲的なものでした。
若い頃の放蕩生活ゆえのペンネームだったんでしょうね。
滝沢馬琴というのは本名とペンネームを組み合わせた言い方で、没後の後世に使われ始めたようです。
馬琴は晩年失明しましたが、先だった長男・宗伯の妻であった路女(みちじょ)に文字を教えながら口述筆記させることにより南総里見八犬伝という超大作を完成させました。
路女は、路霜大姉の法名で馬琴の墓の後ろに眠っています。
馬琴とお路の関係に対し妻であったお百が嫉妬したため、その頃の馬琴の家庭内では波風が絶えなかったそうです。
没後も馬琴の近くに眠る「お路」に対して、果たして「お百」は今でも嫉妬しているのでしょうか・・・・。



境内の石仏を眺めていると、ここが東京であること、あるいは今が2011年であることを忘れてしまいそうになります。
汗だくの体を 時おり吹く涼風が癒してくれる、真夏の真昼間。
まるで夢の中にいるような気がしてきます。
いい時間が持てました。
ここ深光寺には、キリシタン灯篭もあります。



起伏の激しい土地である茗荷谷周辺。



今まで下って来た坂は「茗荷坂」。



禿坂(かむろざか)や きりしたん坂を探して歩いていると、廃墟になっている建物を見つけました。
「廃墟」にも最近興味が出てきた私ですので出入り口を少し探してみたんですが、建物に近づく道が分からなかったので、時間の制約もあり廃墟探訪は諦めました。
ちなみに、禿坂の禿(かむろ)というのは河童のことだそうです。
藤寺の近くにはかつて小川があっので、その小川にかつて「河童がいる。」と言われていたのかもしれません。




蛙坂。
以下、坂の説明書き。
「蛙坂は七間屋敷より清水谷へ下る坂なり、或は復坂ともかけり、そのゆへ詳にせず」(改撰江戸志)
『御府内備考』には、坂の東の方はひどい湿地帯で蛙が池に集まり、また向かいの馬場六之助様御抱屋敷内に古池があって、ここにも蛙がいた。むかし、この坂で左右の蛙の合戦があったので、里俗に蛙坂とよぶようになったと伝えている。
なお、七間屋敷とは、切支丹屋敷を守る武士たちの組屋敷のことであり、この坂道は切支丹坂に通じている。



蛙坂。



切支丹屋敷跡。



屋敷跡の説明。



切支丹坂。
案内板は皆無です本当は見つけられなかったはずですが、幸いにも近くにおられた方に教えていただきました。
前方の鉄道高架下のトンネルを含めて「切支丹坂」で、トンネルを出てから先は切支丹坂ではないそうです。



藤の花の美しい藤寺(伝明寺)へ。



藤寺の横にある藤坂の説明。



藤坂。



再び電車に乗り「淡路町」駅へ降り立ちました。



神田川。



柳森神社に到着。
神社名が刻まれた標柱が黒ずんでいますが、これは戦災被害で焼け焦げた跡。
意外ですが、ここ柳森神社は京都の伏見稲荷大社の分社なのです。
東京のパワースポットであると同時に、怪異な話が伝わる場。



赤い江戸文字が鮮やか。



「富士講関係石碑群」の説明。



富士講関係石碑群



境内にはタヌキの石像が数多くあります。



力石群。



力石群の説明。



鼻の欠けたタヌキ。
ここ柳森神社は、タヌキと縁がある神社なのです。



「おたぬきさん」の説明。
これを読むと、ここ柳森神社とタヌキとの関係がよく分かります。



可愛い「おたぬきさま」。



キツネさんも鎮座。



「貴族の装い」と表現される御衣黄桜(ぎょいこうざくら)の樹。
東京都内では極めて珍しい桜の樹です。



ユニークな表情の「おたぬき」さん。
ここ柳森神社がある場所には、かつて清水山という小さな山がありました。
江戸時代、ここ清水山に「三人の若い娘の幽霊が出る。」という噂が江戸中に広がりました。
血気盛んな若者三人がある夜、酒を飲んだ後、「こちらもちょうど三人だい!」などと言いながらワイワイと賑やかに清水山にやって来ました。
草深く木々が生い茂る中、夏なお寒気がするほどの荒涼たる風景に耐えながら草を漕ぎ頂上にたどり着いた三人。
ホッとして神田川を見下ろすと、川べりに白い妖しい影が三つ。
次の瞬間、若者達の目前を怪しい光が横切ったことに驚いて飛びのいた拍子に、見た川べり。
そこには、肩を抱き合って泣いている不気味な女性三人の姿が。
驚いて悲鳴を上げながら命からがらやっと逃げかえった三人でしたが、その後 三人とも高熱を出してあっけなく他界してしまったそうな。
さて柳森神社をあとにして、「お玉ヶ池」関連の地に向かうことに。



「お玉ヶ池」関連の地をかなり時間をかけ、同じ場所を行ったり来たりしながら探しましたが結局見つかりませんでした。
近くの人に尋ねても誰一人知らなかったので、結局訪れることはかないませんでした。
伝馬町に就きました。
牢屋敷跡の石碑を発見。



牢屋敷跡などの説明。



まだ伝馬町は周りません。
「のっぺらぼうが出た」とされる場所を探します。
おかしな天気で、陽が差しているのに雨が降って来ました。
「狐の嫁入り」です。



東京スカイツリーらしきものが見えています。



この近くには一部分だけ、祭の山車や神輿が避けて通り、江戸の人々が住むのを極端に嫌がった場所があったようです。
その場所には、徳川幕府が成立するかなり以前に刑場が置かれていたとか。
右側の道路の中央部には、かつて井上龍閑が建設した運河「龍閑川」が流れており、そして前方に見えている歩道橋の辺りに、その龍閑川に架かる「地蔵橋」という橋がありました。



ここらが地蔵橋が架かっていた場所。
橋の前を夜半に通りかかった男が、木の下にしゃがみこんで背中をこちらに向けシクシクと泣いている女を見かけました。
「もし、お女中。どうなされました?」と男は声をかけまます。
しかし返事がないため、「どうしたんだい何かあったのかい。おいらに話してごらんなせえ。」とやや声を荒げて再度声をかけても、女は無反応でただただ泣くばかり。
声をかけた以上 男はその場を去ることもできず、黙って女を見つめていました。
少しして女は突然顔を上げて、そして後ろを振り向きました。
その顔は・・・。
恐ろしいことに、その顔はつるつるの「のっぺらぼう」だったのです。
男は腰を抜かさんばかりに驚き、飛びあがって悲鳴を上げながら無我夢中で逃げ出しました。
そして、命からがら何とか知人の家にたどり着きましたが、男はそのまま寝込んでしまったそうな。
そんな有名な「のっぺらぼう」の話の舞台が、ここなのです。



陸橋の上から、旧・龍閑川の跡を眺めます。
川があった場所だったことは今ではもううかがえませんが、それでもじっと見ていると何となく「川だった」ような雰囲気も感じられてくるから不思議。



龍閑川跡から離れ、北東へ少し戻りました。
そして、小伝馬町に到着。
人々によく知られた場所である、小伝馬町牢屋敷跡へ。
今は、牢屋敷跡のほとんどが公園になっています。



大安楽寺へ。
寺の名前は「牢屋敷跡にふさわしい名前だな。」などと思えますが、決してそうではありません。
寺建立の寄進者で財界大物だった大倉喜八郎の「大」と安田善次郎の「安」の字をとってつけられた名前なのです。



境内の地蔵様。
とてもいい表情をされています。



延命地蔵尊でした。
牢屋敷跡に、子育て・息災ですね。
京都にも同じような場所が数多くあります。
それでいいのです。



大安楽寺の正面。



弁財天使い神。
白蛇石は日本各地に見られ、それぞれに独特の信仰があります。
これはアイヌのカムイコタンから贈られた自然石だそうですが、石をいくら見ても化石には見えませんでした。
石を彫る加工がしてあるように私には見えましたが、実際にはどうなのでしょうか。



説明。



再び電車に乗り、「八丁堀」駅で下車。
鉄砲州稲荷神社へ。



鉄砲州稲荷神社の説明。



鉄砲州稲荷神社。
稲荷神社を「生成神社」と書くなど、独特の表記が興味深いものでした。



境内にある二ノ宮金次郎像。
なぜか顔が、テレビでよく見るニュース解説者の人ととてもよく似ていました。



力石。






鉄砲州浅間神社へ向かいます。
鉄砲州浅間神社とは、要するに模造富士山の上にある祠のことです。




模造富士。
「感じる」人は、この辺りで一番敏感に「怖い」と思ったりするようですが、私には何も感じられませんでした。



模造富士山の周囲を一周。
表面が滑らかな石がいくつもありました。



この石の表面の滑らかさは凄いです。



石造りの鳥居。
ここからの登山は、危険なので禁止されていました。



富士登山開始。



あっという間に山頂近くに到着。
1分もかかりませんでした。
山頂から見下ろす「下界」の風景。



小さな祠にお参りします。



この岩の表面も、何とも味があります。



山頂には上がれません。
山頂には祠が鎮座。
これがおそらく鉄砲州浅間神社。



鉄砲州稲荷神社をあとにして霊巌島(れいがんじま)にある於岩稲荷田宮神社(新川分社)を目指します。
霊厳島への橋を渡ります。



海のような雰囲気の水門がありました。



於岩稲荷田宮神社・新川分社を散々探し回りましたが、その場所が全く分かりません。
橋を何度も何度も行った来たりしても分からなかったので、仕方なく鉄砲州稲荷神社近くの交番で場所を尋ねました。
ずいぶん時間をかけて探してもらい、やっと場所が分かりました。
でも、教えてもらった地図がかなり古いのが気になりました。
でも一応教えてもらった情報である、「橋を渡って二つ目の信号を左折し、右側に大きな二つのビルが見えてきたらその左側」を信じてその通りに行動。
でも結局分かりませんでした。
時刻がちょうど昼休みタイムだったので数多く姿を見かけた役所勤めらしき何人もの人に、「於岩稲荷田宮神社へはどう行ったらいいのでしょうか?」と尋ねたものの、誰一人知っている人はありませんでした。
遠くまで来てしまったのでもう戻らずに、さっき渡った橋からかなり離れた別の橋を渡ることにします。
橋の上から係留されている船を眺めます。
さて、そろそろ長女の新居に向かおうっと!
昨日も訪れましたが、帰宅する今日も帰宅する前に長女の新居に寄る予定をしているのです。
長女の新居に寄った後は、品川から新幹線「のぞみ」で京都に戻ります。



東京の「怪異ゾーンめぐり」は、とっても興味深かったです。
今回のウォークで、「お岩さん」が祟り神でなく貞女だったことを知ったことは大きな成果でした。
まだ周りたい場所が数多くあるので、東京に行った際には可能な範囲で「東京怪異ゾーン」めぐりをしようと思います。



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