今日は、妻の仕事が休みで、私も新しい仕事がまだ本格的に動き出していないので休み。
夫婦が二人とも休みになることは最近ほとんどなかったので、今日は妻と共に咲き始めた京都市街地のサクラの花を愛でに行きました。

本日のウオーキング歩数、約10,000歩。(万歩計は故障中)

2011年4月6日(水)




風邪をひいてしまい鼻がうっとうしく咳もひどいので、電車ではなく車で出かけました。
七条にある豊国(とよくに)神社へ。
ここの駐車場に車を駐めました。
豊国神社の駐車場は30分間で150円。
サクラの花の時期や紅葉の時期の週末には京都市内の駐車場はどこも超満員で駐車場探しが大変ですが、そんな時にもこの駐車場は空きがあることがあります。



豊国神社向かいの耳塚公園。



耳塚(鼻塚)。
16世紀末に、天下統一を果たした豊臣秀吉が大陸に手を伸ばそうとして朝鮮半島に侵攻。
その際に、秀吉輩下の武将は朝鮮軍民男女の鼻や耳をそぎ落として塩漬けにしたうえで日本に持ち帰りました。
秀吉の命により、その耳や鼻はこの地に埋められ供養の儀が持たれました。
秀吉が起こした戦は、朝鮮半島の人々の根強い抵抗により秀吉軍が結局敗退します。



鴨川沿いへ。












ユキヤナギの花も満開。






五条楽園へ。
まず河原院跡に来ました。



河原院の説明。



妻は遊郭の建物を見たことがないということだったので、五条楽園内を歩きます。
「この中には某指定B力団の堅牢な事務所がある。」などと説明をしながら歩きましたが、妻は五条楽園内の雰囲気があまり好きではないようでした。
そこで、ここ菊浜町まで来てUターンし、再度五条楽園散策をしながら北進し五条楽園から出ることにします。
柳の新緑の向こうの建物は「ひと・まち交流館 京都」です。



五条楽園をあとに。
五条通りを北側に横断し、高瀬川沿いを歩きます。
牛若丸と弁慶像がありました。
実は、牛若丸と弁慶が出会ったとされる当時の五条橋は今の五条大橋ではありません。
当時の五条橋は、今の松原橋なのです。



高瀬川沿いを北進。
五条通りから、高瀬川沿いには桜の並木が延々と続いています。
だからサクラの花の時期には、高瀬川沿いの風景は圧巻。



素晴らしい風情。



「一之船入り」がある二条まで歩こうと考えていたんですが、次第に空腹になってきました。
加えて、午後2時には自宅に帰りつきたいので、今日のウォークはここ三条までにします。



池田屋事件があった、当時の旅館・池田屋跡。
今では、海鮮茶屋・池田屋になっています。



海鮮茶屋・池田屋。
ここ池田屋の料理は「おいしい」と結構評判。
ここで昼食を食べようと思っていたんですが、もう昼食時間なのになぜか「準備中」との札が。
仕方なく、「がんこ」で寿司・うどんランチを食べることに。



昼食をおいしくいただきました。
時間があまりないので、豊国神社がある七条まではウォークでなく京阪電車に乗ることに。
三条大橋西詰には、おいしそうな五色豆を売るお店があります。
建物がとっても素敵。



三条大橋西詰にある、大橋の擬宝珠(ぎぼし)の刀傷についての説明。
「池田屋騒動の時についたのではないかといわれており・・・」と書いてあります。



これがその傷です。
「友情出演」の妻の指が、強い日差しでぼやけて写っています。
私はこの傷は「池田屋騒動」でついた傷ではないと感じています。
そう考える特に大きな理由はないのですが、当時はここに高札場があり、その高札場をうっとうしく思う浪人などが取り締まりにあたる新撰組とよく刀を交えていました。
この傷が仮に刀傷としたら、池田屋騒動という限定的な事件の時より、むしろ日常的に頻発していたそうした小競り合いの時についた傷の可能性が高いと考えられるからです。
また、擬宝珠に刻まれた文字をよく見ていくと、この擬宝珠とは別の擬宝珠に「コンクリート」とカタカナで刻まれている部分もあります。
そもそもこの擬宝珠が造られた時代は、果たしていつなのだろうか?とも感じました。
でもまあ、「池田屋事件の時についた刀傷」と考える方が歴史に思いを馳せ興味を持つことができるので、それでいいのですが。



三条駅に着くと、ちょうど各駅停車の電車が発車するところでした。
その電車に乗り七条駅で下車。
七条通りを東進。
興味をひかれるお店がいっぱいあります。



大仏前交番に到着。
ここを左折します。
この交番の名前通り、かつて京都には大仏がありました。
その京都大仏は、現存する奈良大仏よりも大きいものでした。
今では京都に大仏があったことを知らない京都人も多く、それがとっても残念です。



豊国神社の石垣の巨岩。
この石垣は、かつては京都大仏殿があった方広寺の石垣だったのです。
京都大仏は悲劇の道をたどって今に至ります。
・1586年 豊臣秀吉が「刀狩り」で農民から集めた武器を溶かして高さが19メートルもある初代大仏を建立
・1596年 近畿を襲った大地震で壊れたうえ発生した火災で初代大仏が焼失
・1612年 豊臣秀頼が徳川家康の勧めで2代目大仏を建立(徳川家康の「豊臣家の財産を減らさそう」との思惑あり)
・1662年 豊臣家が徳川家に滅ぼされた後も存在していた2代目大仏が再び京都を襲った大地震で崩壊
       (壊れた大仏は寛永通宝として鋳造される)
・1662年 第3代目の大仏として木造の大仏が建立される
・1798年 大仏殿に落雷があり木造の3代目大仏も焼失
・天保年間(詳細不明) 愛知県などの有志が旧大仏より小ぶりの、肩より上だけの木造大仏と仮殿を造り寄進(4代目大仏
・1973年 深夜の火災により肩から上だけの4代目大仏が焼失
さほど昔でない、私が23歳の時まで京都に大仏があったのです。
当時の私は京都にも歴史にも全く興味を持っていなかったことが、今になって悔やまれます。
ひと目でいいので京都大仏を見たかったなって思います。
私の知人が京都大仏があった方廣寺の近くに住んでいたことがあったのですが、その子どもの頃の話を私にしてlくれたことがあります。
その知人の話によると、当時の方廣寺は出入り自由だったそうです。
悪いことをしたら親に方廣寺大仏殿に連れて行かれ、大仏さんのそばに縛り付けられたこともあったそうです。
それほど方廣寺がオープンで、京都大仏も身近な存在だったってことなんでしょうが、あるいはそのオープンさがあだになって深夜の火災が発生した可能性もあるかと。
「悪ガキ達が集まって煙草を吸っていて失火」「入り込んだ誰かが火遊びをしていて失火」など、あくまで想像でしかありませんが色々と考えられます。
漏電の可能性もありますが、もう今から37年も経った今となっては真相は藪の中。



豊国神社境内のサクラの花。
駐車料金600円を支払って、さて帰路に。


京都は、秋の紅葉の時期とならんで素晴らしい、華やかなサクラの花の時期を迎えました。
ただ、いくら平日とはいえ、そんな華やかな時期なのに人出があまりにも少なかったのに驚き、そして悲しくなりました。
普段は耳障りなほどよく聞こえてくる中国語を、今日はたった1度しか聞きませんでした。
中国人をはじめとする外国人観光客が、放射能汚染を警戒して激減していることを実感。

震災と津波で大変な被害をこうむり、原発事故で野菜や魚の放射能汚染が長期にわたるのは確実。
数多くの工場が被災し操業不能なのに、それに加えて電力不足で被災していない工場さえもフル稼働できない事態が続いています。
そんな状態で、外国人観光客までが激減。
日本の経済の先行きに、とてつもなく大きな不安を感じます。

秋の紅葉期と並んで華やかな時期を迎えた京都。
ぜひとも多くの人に京都に来ていただいて、サクラの花の都を愛でて欲しいと思います。



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