今日は、東京訪問の二日目。
早朝のウォークの途中で偶然にも鈴ヶ森刑場跡へ。
鈴ヶ森刑場の名前は聞いたことがありますが品川区にあるとは全く知らなかったので、朝のトレーニングウォークで訪れることになったことは本当に驚き。
刑場跡は東海道に面していますので、東海道57次ウォークの駒を進めてくると再び訪れることになる場所です。


本日のウオーキング歩数、22,511歩。(うちエクササイズウオーク9,767歩)、消費カロリー738kcal。

2011年2月12日(土)




まだ寝ている妻を部屋に残して、私は単独で朝の散歩。
ホテルを出ます。



東京都大田区の風景。
朝日に照らされた見知らぬ地の風景が新鮮です。



今のところ、とってもいい天気。



京急本線の高架。



この辺りはもう品川区かなあ・・・・。
大田区と品川区の境目辺りには旧東海道が通っているはず。
東海道ウォークを進めれば、いずれこの辺りには再訪問することになるはず。



何だか一種独特の雰囲気が漂う場所がありました。
ここは何だろう?



鈴ヶ森遺跡・・・・。
ゲゲッ!?
刑場跡ではないですか。



驚きました。
名前だけは知っていた鈴ヶ森刑場跡ですが、まさかこんなところにあったとは。
そしてそこに私が偶然訪れることになるとは。
心から驚きました。
鈴ヶ森刑場は1651年に開設され、1871年に廃止されるまでおよそ10万人もの人が処刑された場所。



司法の機能が形だけしかなかった当時。
多くのえん罪事件があったことでしょうし、農民一揆の指導者などもこの場所で無念の時を迎えたはず。
そうした人達の冥福を心から念じました。



処刑された人の首を洗ったとされる井戸。
当然ながら今ではこの井戸は使われていません。



八百屋お七もこの場所で火あぶりにされました。
火あぶり台の台石や磔台の台石も残っていましたが、写真には撮りませんでした。
台石には、処刑者をくくりつける柱を立てるための穴が生々しく残っていました。
なんともたまらない気持になりました。
帰宅して調べたら、品川区の郷土史には「鈴ヶ森刑場で処刑された人のうち、およそ4割がえん罪だった」との記述があることを知りました。
なんともひどい話です。



くねくねと異様に曲がりくねった異様な松の木が印象的でした。
今は刑場の一部しか残っていませんが、当時は間口がおよそ75メートル、奥行きはおよそ16メートルほどもあったそうです。
「地獄の地」は、当時は名前通り森だったのかもしれません。



重くなった心を引きずりながらのウォークを再開。
ビルの下に、それも二階の位置に神社らしきものがありました。



神社の説明。
結構、価値ある神社のようです。



ウォークを終えホテルまで戻って来ました。
さて、朝食!
ここのバイキング形式の朝食は、とっても人気が高いのです。



この日の用事が一段落。
午後のウォーク開始。
新井宿義民六人衆の文字が。
1673年の干ばつと翌1674年の多摩川氾濫などで、農民達は生活できない状況になってしまいました。
でも、そんな新井宿の農民達が領主に年貢の減免を願い出たものの、認められませんでした。
過酷な年貢の取り立てに耐えられなくなった農民達は幕府に直訴することを決め、1676年1月に村人6人が江戸へ向かおうとしました。
ところがそのことを領主に知られ、全員が捕らえられて処刑されてしまいます。
おそらく朝に偶然訪問したあの「鈴ヶ森刑場」で処刑されたのでしょう。
直訴は失敗しましたが、この件によりその年から年貢が半減されました。
村民はこの6人を義民六人衆としてあがめ、今に至っています。



義民六人衆の墓所がある善慶寺へ。
六人衆の墓所は、元々は先ほど見た「六人衆」のことが書かれた大きな塔がある辺りにあったそうですが、近年善慶寺に移転されました。
善慶寺からその奥にある神社にも行くことに。



写真では分かりにくいのですが、強烈な階段。
上ると足がだるくなりました。



階段を上り終えて境内へ。
何だか面白い形の石がありました。
「さし石」と刻まれています。



わお!?
村の人達の力試し用の石だったんですね。
当時の村の若者達の生活の一端を知ることができ、何だかとっても嬉しくなりました。



お参りします。



こちらにも変わった石がありました。



左の石は「狐碑」だそうで、どうやら悪い狐がこの下に封じ込められている模様。
絶対に掘ってはいけないそうです。



珍しい石灯篭がありました。



賑やかな通りへ戻りました。
このダイシン百貨店はテレビで何度か見たことがあります。
何でも置いているので、そして価格が安いことで有名。
お年寄りでもゆっくりと買い物できる素敵な空間です。



大正末期から昭和初めにかけてこの辺りには多くの芸術家が住んでいました。
石坂洋次郎さんもその一人。
当時は馬込からここ山王あたりは武蔵野の雰囲気を色濃く残していました。
静かな田園地帯を芸術家が行きかう風景から、いつしかこの辺りは「馬込文士村」と呼ばれるようになりました。
さてと、戻ってまた用事に取りかかろうっと。


東京で過ごす二日目。
とってもいい時間が過ぎていきました。


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