今日は、2回目の旧東海道線ウォーク。
地下鉄東西線・小野駅(旧山科駅近く)〜京阪電車・膳所駅(旧東海道線・馬場駅)間を歩きました。
これで、京都駅〜馬場駅(今の京阪電車・膳所駅)間の旧東海道線跡を歩き終えました。
かつて鉄道にはほとんど興味がなかった私ですが、最近はとっても「鉄道づいている」ようなそんな気がします。

本日のウオーキング歩数、29,965歩。(うちエクササイズウオーク12,127歩)、消費カロリー985kcal。


2011年1月8日(土)




地下鉄東西線の小野駅に到着。
さっそく旧山科駅跡へ。
ここが旧山科駅跡ですが、現山科駅とは全く違う場所にあります。



山科駅跡の石碑。
ネット上では旧山科駅跡の石碑が「民家の角にある」と書いてあるサイトも多いので、「石碑がもう1か所あるのかな?」と思い探しまわったのですが見当たりません。
結局、かつて石碑が立っていた民家の方にお話しを聴き、「整備され今の場所に移転されました。」と教えてもらいました。
山科駅跡の石碑は2か所ではなく、ここ1か所にあるだけです。



「名神起工の地と旧東海道線山科駅跡」の説明。
旧東海道線・山科駅があったこの場所は、名神高速道路の起工地点なのです。
それは、名神高速道路が旧東海道線の跡地に建設されたがゆえのこと。



説明を順番に見ていきましょう。
まず、名神高速道路の説明。
1958年にこの地で着工された名神高速道路は、1963年に栗東〜尼崎間71kmがまず開通し、1965年に193.9kmの全線が開通しました。
日本初の有料高速自動車道として開通当初は道路自体が観光名所になり、高速道路の通行車両が路肩に車をとめ弁当を食べたり写真撮影したりといったのんびりした風景が見られたそうです。
当時は自動車の性能が低く、連続高速走行に耐えられずオーバーヒートする車が続出しました。



次に、旧東海道線の線路と名神高速道路との位置関係。
現JR奈良線の稲荷駅の少し南から大谷までは、名神高速のほとんどが旧東海道線の跡地に建設されたことが分かります。
ただ、この絵地図を見れば分かりますが、隋心院を越えた辺りから旧東海道線の線路と、名神高速道路が重なっていない部分があります。
その部分は急傾斜地で、陸蒸気がスイッチバックを繰り返しながら坂を上っていた所。
高速道路がそんなスイッチバックの線路跡を通るわけにはいかないので、そのスイッチバック部分は避ける形で旧東海道線の線路跡でない部分に新たに山を切り開いて高速道路が建設されたものだと思われます。
当時はトンネルを掘る技術が極めて未熟だったので、「トンネルは極力造らない。」という方針だった模様。
旧山科駅前にあった絵地図を見ても、現在の東海道本線の新逢坂山トンネルは旧逢坂山トンネルとは比較にならないほど長いことが分かります。
「絵地図」という不正確さを勘案しても、新逢坂山トンネルの長さは際立っています。
一番いいのは、現在使われている新逢坂山トンネルの位置にトンネルを掘ること。
それは当時の人も分かっていたはず。
でも新逢坂山トンネル程の長大なトンネルを掘ることは当時は不可能だったので、あえて山科の急坂を越えるルートが建設されたのではないでしょうか。(これはあくまでgodzillaの想像の域を出ませんが。)



最後に、旧山科駅について。






名神高速道路内に設置されている巨大な「起工の地の碑」。



植樹に遮られて見えませんが、左側が名神高速道路。
旧東海道線は、このように延びていたのです。



ドンドン直進し、大宅鳥井脇町の交差点に到着。
直進すれば名神高速に沿って進めます。(その途中で橘大学前に至る道と交わっています。)
でも旧東海道線の線路跡は、この交差点の手前から名神高速道路ではなく高速道路の少し西側を延びていました。
この辺りから先は、山科駅跡の地図にあった「旧東海道線の線路と名神高速道路が重ならない部分」になります。
つまりこの先の名神高速道路は、旧東海道線の線路跡ではないということです。
この道を左折すると旧東海道(奈良街道)になりますが、旧東海道線の線路は旧東海道の大宅一里塚辺りから大塚小学校にかけ、新奈良街道(小山大塚線)付近に敷かれていました。
ゆえに、直進せずここを左折し旧東海道に向かいます。
ただし、当然ながら旧東海道は旧東海道線の線路跡ではありません。
旧東海道線の線路跡は、名神高速と旧東海道の間の道です。



旧東海道にある大宅一里塚。
東海道は東京・日本橋〜京都・三条間だと広く知られていますが、実は東海道は大阪城落城後に大阪の高麗橋まで延伸されたのです。
だから東海道は「東京・日本橋〜京都・三条間の東海道53次」ではなく、「東京・日本橋〜大阪・高麗橋間の東海道57次」だとも言えるのです。



ここが一里塚だったことを示す石碑。
ここ大宅一里塚跡は、京都市内に唯一残っている一里塚跡です。



一里塚跡の石地蔵。
当時の旅人にとっては心強い存在だったことでしょう。



大宅一里塚の説明。



旧街道らしさが漂う雰囲気を楽しみながら速歩。



大宅バス停前を通過。



妙見道。
旧東海道を右折しこの道に入ります。
写真では分かりにくいのですが、この先はかなり急な登りになっています。
旧東海道線が走っていた当時、補助機関車を連結した陸蒸気がこの先の傾斜を喘ぎ喘ぎ登っていたのです。
妙見寺近くの急傾斜では、開業後の列車本数の増加に伴って大塚信号所が新たに設置されると共に、引き上げ式のスイッチバック引き込み線も設置されました。
無事に急傾斜を登り終えた後、陸蒸気は大谷駅を目指してばく進していったのです。
今は住宅街に姿を変えているこの先に引き込み線の線路があったのだと思うと、タイムマシンに乗ってその頃にタイムスリップして当時の壮大な風景をぜひとも見たい、そんな気分になってきます。
ちなみに。
馬場駅(現・京阪電車石山坂本線の膳所駅)の近くには、その補助機関車の連結を外すための「大津機関区」が設置されていたそうです。



妙見寺南側の大鳥居に到着。
旧山科駅辺りから大谷への路線は傾斜が急であったため、下りの所要時間が10分だったのに対し上りは17分も要していました。
東海道線の列車本数増加による線路容量不足を解消するため、1913年にこの場所に「大塚信号所」が新たに設置されました。
信号所には、スイッチバック式の引き上げ線も設置されました。
この場所には、その旧東海道線のスイッチバック式の引き上げ線の線路下にあった「トンネルの入り口跡」と伝えられる鉄道遺構が現存しています。
そんな貴重な物が今に至っても残っているという事実は、本当に奇跡に近い驚くべきこと。
それまでは平地しか走ったことがなかった陸蒸気が、日本で初めて、この周辺の急傾斜地や逢坂山という山間部を走ったのですから、この路線の建設や運営に携わた当時の人々の苦労は並大抵なことではなかったことでしょう。



引き上げ線の線路下にあったトンネルの入り口跡と伝わる鉄道遺構。
形を見ると、確かにトンネルの入り口のような形をした構造物です。
「鉄道遺構」とは言っても、現存しているのはたったこれだけのもの。
「たった」でも、考え方によっては「最高に素晴らしい」とも考えられます。
ここにあった大塚信号所では、貨車の入れ替え作業中に大津から山科へ向かう貨物列車が将棋倒しになる大惨事があったとの記録も残っています。



極めて貴重な鉄道遺構。
存在自体があまり知られていないことも関係しているのか、今のところ保存状況は良好と言うか普通です。
それと。
規模は分かりませんが、ここに旧東海道線のトンネルがあったという事実。
インターネットのホームページで旧東海道線について情報をアップしているサイトは多くても、このトンネルのことに触れているサイトは私が調べた限りでは皆無でした。
そう考えると、極めて貴重な遺構なのに、今までは実にひっそりと存在し続けた鉄道遺構だと言えます。



説明も何もないので、これが旧東海道線の引き上げ線下にあったトンネル跡であるということを知る人は少数。
それでいいのです。
いや、「それがいいのです。」かな。
いずれにしても、この遺構は広く世に知られて欲しいとは私は思いません。
ただし、この遺構が世間一般に知られることにより「丁寧な保存」につながるのなら話は別ですが。
なお、前述の大塚信号所のことや、陸蒸気が旧山科駅〜大谷駅間を走るのに要した時間のことなどは、とある公的資料で情報を得ました。
旧東海道線跡は、その資料を参考にしながら追加調査をする予定です。
その調査が終わった時点で、改めて使用した資料の名称や、そうした記述がその資料の何ページにあるかなどを公開する予定です。



妙見寺へお参り。
本堂へ。



急な登りがあるこの辺りは、当時の陸蒸気(SL)にとって最大の難所でした。
引き上げ線が必要なほどの急傾斜だったことが、妙見寺の山門の階段で道路の傾斜を見るとよく分かります。



妙見寺から旧東海道方向を望む。
妙見寺の塀の石垣とガードレールを比べてみても、傾斜が急なことが分かります。



この道路が旧東海道線跡地です。
スイッチバックで急坂を登り終えた陸蒸気の機関士は、本当にホッとしてこの付近の風景を眺めたことでしょう。
鉄道が建設された当時は山を切り開いた線路だったので、複線の線路面が凹型にへこんだ形状になっていました。
でも現在は切り通しの両側の土はこうして完全に取り除かれており、線路面と同じ高さになった土地には写真のように住宅が立ち並んでいます。
右手が山側だったので、その頃の名残である土地の傾斜が今でも見られます。



妙見寺をあとにしてウォーク再開。
新幹線の線路を越えます。



再び名神高速道路と出会います。
旧山科駅前にあった絵地図とピタリと一致します。
ここから先はまた、名神高速道路が旧東海道線跡地だということになります。



名神高速道路沿いにどんどん進み、京都東インターチェンジを越えた辺りで国道1号線に突き当たりました。
右折し、ここから先は国道1号線の歩道を歩きます。
昨夜降った雪が残っています。



月心寺前へ。



月心寺の屋根にも雪が。



更に進撃。
大津算盤の説明がありました。
ここ大津は日本算盤発祥の地なのです。



京阪電車・京津(けいしん)線の大谷駅近くで国道1号線を横断し旧東海道へ。
この辺りはおいしいいウナギを食べることができる店があります。



京阪電車大谷駅へ。



大谷駅のベンチ。
別に斜めに写真が写っているわけではありません。
急傾斜地に駅があるため駅舎が傾斜しており、その傾斜に合わせてベンチの脚の長さが両側で異なっています。
大谷がいかに急峻な地であるかが分かると思います。
ここ大谷にも、旧東海道線の駅があったのです。



大谷という地の説明。
人口も極めて少ない急峻なこの地に旧東海道線の駅が設置されたのは、逢坂山を越えるトンネルが完成するまでの一時的な駅としての位置づけがあったためと思われます。



蝉丸神社へ。



蝉丸神社参道の階段下にある「車石」の説明。



車石。
牛車が頻繁に行き来する道なのに、逢坂越えは難所中の難所。
そこで、牛車の車輪が収まる牛車専用道として「車石」が1805年に敷設されました。



名神高速道路・蝉丸トンネル西口付近。
ちょうどこの下辺りに、旧東海道線の大谷駅がありました。



旧逢坂山トンネル西口があった場所へ。



旧逢坂山トンネル西口があった位置。
この下18メートルに旧逢坂山トンネルの西口がありました。
でも名神高速道路建設のため、埋められてしまいました。



日本人だけの手で掘られた初の山岳トンネルが、旧逢坂山トンネルでした。
そのトンネルの西口は名神高速道路の建設で消え去ってしまいましたが、外国から購入した削岩機を一切使用せずノミやツルハシだけでトンネルを完成させました。
そうした人達の栄誉を考えると、こうして石碑が設置されたことが嬉しい限り。



逢坂の関へ。



逢坂の関跡も整備され、多くの説明板が設置されました。
現在いる地点は、この地図で見るととってもよく分かります。



逢坂峠と東海道の説明。



車石と大津算盤の説明。



大津絵の説明。



車石。
雪をかぶっています。



逢坂の関の説明。



京都駅から南下しJR奈良線の稲荷駅の少し南で東に向きを変え、今の名神高速道路のルートが旧東海道線だったことを地図を見ながら確認します。
終点の膳所駅の位置もとってもよく分かります。



逢坂常夜灯。
かなり大きな常夜灯です。



逢坂山関址の石碑。
さてウォーク再開。
ここから浜大津へはずっと下り。
今日は出発前に家族のことで病院に行っていたので出発が遅くなりました。
時間節約のため、自宅から持参したチラシ寿司のおにぎりを、この下りを利用して歩きながら食べることに。
今日も座って休むことは一切考えていません。
「ただひたすら歩け歩け、歩くだけ。」と言うのが、今日の私の作戦内容の全て。



下りの途中にある旧逢坂山トンネルの東口へ到着。



旧逢坂山隧道の説明。
隧道(ずいどう)とはトンネルを意味します。
説明を読むと、この逢坂山トンネルの歴史的な価値がとってもよく分かります。



旧逢坂山トンネル東口の下り線トンネル。
今は、京大防災研究所の研究施設として利用されています。



「近代化産業遺産」の銘板。
ここ旧逢坂山トンネルは近代化産業遺産であり、同時に鉄道記念物にも指定されています。



京大防災研究施設の入り口。
施錠されてはいますが、使われている雰囲気が伝わってきます。



旧逢坂山トンネルの上り線トンネル。
こちらも小さな扉が付いていますが、使われている気配は感じられません。
この旧逢坂山トンネルは路線廃止後も人々の行き来に利用されてきましたし、敗戦後には家を失った人々の仮住まいとして使われていました。
このトンネルは、人々の暮らしの移り変わりを鉄道廃止後もずっとずっと見続けてきたのです。
今までも、そしておそらくはこれからも・・・・。



旧逢坂山トンネル東口全景。
日本が近代化し始めた、極めて初期の時代に思いを馳せます。



旧逢坂山トンネル東口をあとにしてさらに前進。
旧逢坂山トンネルの延長にある、京阪電車京津線の国道161号線の上関寺踏切。
その至近に、煉瓦製の橋台が残っています。
これは旧東海道線が国道を跨いでいた跨道橋跡なのです。



付近には別の鉄道遺構もあります。
これです。



国道1号線に転用された旧東海道線跡地。
その下には、「ねじりまんぽ」がはっきりと分かるこんなトンネルが残っています。
線路の下をくぐる人馬の行き来用のトンネルだったんでしょうね。



トンネルは今は水路として利用されています。
この上の国道1号線のこの部分は、一応「橋」扱いのようです。
でも国道1号線を車で走っている人は、絶対に間違いなく誰一人として「ここが橋だ」とは気付かないことでしょう。
旧東海道線は、ここから先は国道1号線に転用されています。
でも時間がないので、国道1号線を馬場駅(現・膳所駅)まで行って、そしてスイッチバックで運行されていた旧大津支線に沿って再び浜大津まで戻ることはできそうにありません。
そこで、ここからは浜大津まで行き、浜大津から先は旧大津支線をたどって馬場駅(現・膳所駅)まで行くことにします。



関蝉丸神社へお参り。
蝉丸神社は大津市内に3つあります。
ひとつはさっき寄った大谷町の分社「蝉丸神社」、そして歩道の反対側だったので写真は写しませんでしたが逢坂1丁目の国道1号線沿いにある上社、そして国道161号線沿いにあるここ下社(関蝉丸神社)です。



蝉丸というのは人名で、平安時代の琵琶の名手でした。
目が不自由でしたが、音曲の神として崇められました。



京阪電車京津線が今の東海道本線を跨ぐ蝉丸(上関寺)跨線橋。
この奥に、現在使われている新逢坂山トンネルがあります。



この跨線橋は完成が遅れ、京阪電車・京津線(当時は京津電気軌道)が開業しても完成しませんでした。
ゆえに、この跨線橋完成までは、およそ100メートルの区間を徒歩区間として京津電気軌道は開業しました。



こうして見ると、この上を京阪電車が走っているようには思えません。



でも実際には、このように京阪電車がこの上を通っているのです。



浜大津市街へ。
路面を走る京津線の列車は迫力があります。
と言うのも、1両がおよそ17メートルある車両が4両も連結されているからです。



京阪電車・浜大津駅。
旧東海道線・大津支線の大津駅があった場所です。



浜大津港へ到着。
入り口ゲートにはきれいな電飾が。



外輪船のミシガンが停泊中。



「うみのこ」も停泊中。



「うみのこ」のマストの上部に鳥の飾りがありました。
「なかなか洒落てるな」と思いよく見ると、生きている鳥でした。



「megumi」。
初めて見る船かなと思いましたが、よく考えると琵琶湖疏水ウォークの時に見たことがある船でした。



少し前に整備された防波堤。
整備された後は、この防波堤の上を通行することが可能になりました。



京阪電車・石山坂本線の線路。
旧馬場駅(現膳所駅)〜旧大津駅間は、旧東海道線の大津支線と、そして京阪電車の石山坂本線の前身である当時の大津電気軌道とが、路線を共用していた時期もありました。



京阪電車・石坂坂本線の「島の関駅」。



駅ホーム下にある川の橋台は、旧東海道線・大津支線のものが今でも使われています。



島の関駅〜石場駅の間にある小舟入川橋の橋台。
これも旧東海道線・大津支線のものですが、この橋台には「鉄道省」との記載が見られます。
「小舟入川」という地名からも分かるように、この辺りはかつては琵琶湖の船着き場だった場所。



近づいて至近で「鉄道省」との記載を眺めます。
フラッシュを光らさなかったので、上の写真とはずいぶん色が違って写ってしまいました。
「鉄道省」の文字がはっきりと読み取れます。



NHK大津放送局。
京都にもNHK京都放送局がありますが、二条城の北側という目立たない場所にあります。
それに比べて大津放送局は、とっても目立つ場所にあります。
アンテナも大津の方が立派なように思えますが、実際にはどうなんでしょうか・・・・。



旧東海道線・大津支線を歩き終え膳所駅前に到着。
JR東海道線の膳所駅と、京阪電車石山坂本線の膳所駅の二つの駅がある場所です。
今日の行動はここまで。
旧逢坂山トンネル〜旧馬場駅(現膳所駅)間の、国道1号線に転用されている旧東海道線跡はたどりませんでした。
国道1号線には旧東海道線の名残はほとんど残っていません。
私の今回の旧東海道線・京都駅〜旧馬場駅(現膳所駅)間を追うウォークは、これにてお開きということにします。



京阪電車が通過します。
京都からやって来た陸蒸気は、ここ京阪電車の膳所駅の位置にあった馬場駅からスイッチバックで、今の京阪電車浜大津駅にあった旧大津駅まで、京阪電車・石山坂本線が走るこの路線を走っていたのです。
ちなみに。
ここ膳所駅は日本最古のスイッチバックの駅です。
JR東日本・信越本線の松井田駅が「日本最古のスイッチバックの駅」と説明されることも多いのですが、そうではなく単純スイッチバックながらもここにあった東海道線の馬場駅が日本最古のスイッチバック駅です。



帰路につきます。
膳所駅構内へ。
今日は家族のことで朝から病院に行っていたので、これがぎりぎりの時間です。
今から宇治まで戻り、パート勤務の妻を迎えに行きます。



ちょうどいい時間に宇治に着き、そして妻と合流。
美しい夕日を眺めながら帰宅します。
口には出しませんでしたが、助手席に妻を乗せて走っていると年子3人の子育ての時期をふと思い出しました。
妻が自転車の前後に長男と二男を乗せ、長女と共に歩く4人の姿。
その時も今日と同じように美しい夕日で、年子3人と共にゆっくりと歩く妻のシルエットが大地に長くのびていました。
そのシルエットを見た時、なぜか私は思わず涙ぐんでしまいました。
私と、そして今はもう大きく立派になったその年子3人のうちの2人にとって、今年はとっても大きな変化の年になります。
そんな2011年が動き始めました。
はてさて、今年は一体どんな一年になるのでしょうか。


今年初の中距離ウォークが無事に終わりました。
今年一年がどうかいい年になりますように・・・。



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