今日は、山科へ。
琵琶湖疏水を追うウオークを行う中で、山科の魅力を再認識。
そこで山科を時間をかけて周ろうとしました。
でも自宅を出た時間が昼前と遅かったのに加え山科は広く、当初目指した目標の半分ほどしか行けませんでした。
特に後半は、京阪電車大谷駅に行こうとして西大津バイパスの方に行ってしまい、山越えをしようとして1時間近くも激坂を登り、しかもマムシに何度も遭遇しながらたどり着いた場所は行き止まり。(>_<)(+o+)

本日のウオーキング歩数、29,841歩。(うちエクササイズウオーク12,881歩)、消費カロリー963kcal。


2010年5月22日(土)




地下鉄で山科駅に到着。
さっそくJR東海道線・山科駅横の南北通路へ。



地下通路の天井を見るとこんなものが。
日本で3番目に開通した鉄道線である旧東海道線の山科駅は明治12年に営業運転が開始されましたが、その時の山科駅は今の場所ではなく今の地下鉄小野駅近くにありました。
現在の山科駅は、1921年(大正10年)に新路線の開通に伴い移転し営業を開始したのです。
改札を通ってプラットホームに行く、新山科駅の当時の通路がここだったのです。
新山科駅は、当初2線だった線が戦時中に3線になり、更に1956年の電化や1970年更に1線増えて4線になるなど線路や駅舎が繰り返し改築され、開業当初の面影は今はもう見られなくなりました。
でも当時のプラットホームに行く通路跡が、「新駅開業当初の私の姿を忘れないで・・・」とでも主張するかのように今でもこうしてひっそりと残っているのです。
でも1921年に使われ始めた駅舎の名残が今もここに残ることを、山科の人でも知る人は少ないようなのが残念至極。



京都薬科大学を目指します。
新三条通りを通っているのになぜか「五条別れ」の地名が。
地名のいわれは不明。



山階寺跡(推定地)の石碑。



説明。



義経ゆかりのものを見るため、京都薬科大学のグラウンドへ。
管理人さんに声をかけると見学させてもらえます。
「義経の腰掛石」。
蹴上で平家の武士に泥水をかけられたことに激怒した義経は、武士9人全員を切り殺してしまいます。
その刀を池で洗い、その際にこの石に腰かけたとされています。



何の変哲もない石ですが、歴史と言うか伝承の面白さを感じさせます。



腰掛石の説明。



腰掛石の向こうにはブロック塀が。
そのブロック塀の向こう側を見てみると、義経が平家の武士を切り殺した際についた刀の血糊を洗ったとされる「血洗い池」の姿が。
草に覆われた小さな池ですが、「血洗い池」は現存しているのです。
もちろん当時はもっともっと大きい池だったのでしょうが、今ではこうしてほんの一部が残っているだけ。
でも「腰掛石」の位置を考えると義経がこの辺りで刀を洗った可能性が高く、言い伝えに最もふさわしい場所が残っているようです。
現存する「血洗い池」には雨どいの水が流れ込んでいる状態ですが、残っているだけでよしとしなければ。
それにしても、京都薬科大学のグラウンドのブロック塀に隣接し、民家に囲まれたこの血洗い池は一体いつまで残っているのかなあ・・・・・。



京都薬科大学のグラウンドを後にして、グラウンド周辺を歩きます。
大日如来がありました。
義経が平家の武士9人を切り殺した後で後悔し、供養のために9体の地蔵を建立。
その際の地蔵は散逸し、今は蹴上の「義経大日如来像」と日向大神宮の参道のものと2体が残るのみ。



この如来は、その話と関係があるのか、ないのか?
全く分かりません。



伝承にかかわった地名。
不動屋さん泣かせの地名だそうです。



再び山科駅前へ。
「山科京極」なんてのがあるんですね。



山科駅前の緑地。
ここら辺りが「ポンテリカ跡」のはず。
山科駅前再開発中は、ここに「ポンテリカ」という商店街がありました。
山科駅前には多くの店があったのですが、再開発中は仮店舗を設けて営業を継続。
その仮店舗街は「ポンテリカ」と名づけられました。
「ポンテリカ」という名前は、「仮店舗」を反対から読んで名づけられたもの。
山科駅前のお店の人達のパワーと、そしてユーモアあふれる柔軟な心に拍手!!



1998年に再開発も終わり、ポンテリカ跡が緑地に整備され、そしてこの駅前のモニュメントが造られました。
モニュメントは、駅前整備が終わったのと同じ年の1998年に完成しました。



琵琶湖第一疏水へ到着。
毘沙門堂や聖天さん、それに「たたら跡」にも行きたかったのですが時間の関係で次回にします。
今から周る場所は次のものに決定。
・琵琶湖疏水の「埋立水路の天井部分」(疏水沿い・四宮舟溜まり近く)。
・逢坂山を陸蒸気が越えるために造られた旧国鉄線のスイッチバック用引き込み線跡(妙見寺)。
・駅舎の傾斜がきついため脚の長さが異なる駅ホームのベンチ(京阪電車・大谷駅)。



疏水べりに建つ母子地蔵堂。
疏水建設時には、舟運の邪魔にもなる安全柵はありませんでした。
うっかりして疏水に転落すると小さな子どもは時には命を失うこともありました。
疏水建設以来、転落して亡くなる子どもが相次いだため、疏水完成から9年後の1903年に、大津から京都や大阪に舟で織物を運ぶ仕事をしていた善兵衛という船頭さんが呼びかけ、付近の住民の協力も得て完成させた地蔵さまです。



母子地蔵。
今でも子どもを守ってくださっています。



母子地蔵の説明。



新諸羽舟溜まりに到着。
水運が盛んだった頃には、ここの舟溜まりでは、主に物資の積み下ろしが行われていたようです。



何と、トンネルの上部には家がデンと建っています。
この舟溜まりは、小学校にプールが整備されるまでは山科の小学生の夏休みの水泳場として利用されていました。
もちろん、PTAの安全監視のもとでです。
そう言えば、私が小学生の頃には宇治橋の少し下流に「仮設プール」があり、そこで泳いだ記憶があります。



1972年開通のJR湖西線の工事のため、水路変更で埋め立てられた跡地を歩きます。



四ノ宮舟溜まり近くで、「埋立水路の天井部分」を発見。
今から100年前に行われた第二疏水建設の際、諸羽山周辺の土地の状態からトンネルを造るのではなく、開堀して下部をコンクリートで造り上部をこの構造物で覆ってから土を埋め戻す方法をとったようです。
この構造物は、その際に作業員の技量を高めるため練習用として造られたものが今に残っているとのことです。



どっしりとした下部。



鉄筋が錆びてコンクリートが割れている部分があります。
第二疏水内部もこんな状態になっているのでしょうか。



アーチをくぐり反対側から眺めます。



アーチ内部から見る「外界」。
第二疏水の作業員達もこうした風景を幾度となく眺めたことでしょうね。



1882年完成の四ノ宮舟溜まり。
ここの舟溜まりは、物資だけでなく人の往来も多かった場所。



1968年(昭和43年)12月竣工の柳山橋(2号橋)。
橋を渡ると一燈園です。

一燈園は、宗教団体ですが宗教法人ではありません。
本尊はなく、修行者がそれぞれの信仰に従って礼拝しているそうです。
200人余りが共同生活し、印刷や設計・建築、それに農業の研究などもしています。
幼稚園から高校までの教育機関があり、「すわらじ劇団」も運営。
「すわらじ劇団」って何だか聞いたことがあります。



測水橋。



水運をスムースにするための工夫である「三角橋」の構造がとっても良く分かります。



京阪電車の大谷駅を目指します。
測水橋近くの跨線橋でJRの線路を越え南進。
少し回り道したら国道1号線に出られたんですが「ショートカット」することに。
ところが、稲葉台で行き止まりに。(+o+)
でも山道を発見し、「この山を越えれば国道1号線に降りられるはずだ。」と考えて山道へ。



強烈な登りが延々と続き、マムシを何匹も見かけました。
どうやら多くのマムシが日なたぼっこをしている模様。
湿気の多い場所にマムシがいるとされますが、だけどマムシは湿気が大嫌い。
雨上がりなどは、風通しの良い場所や木の枝に乗り日光浴をすることもあるのです。
少し前に雨が降ったので、多くのマムシが甲羅干し・・基!「ウロコ干し」をしている模様。
道の途中に倒木があり、その倒木は枝だらけで通れる場所は1ヶ所だけ。
倒木の下を通ろうとして絶句。
真下にマムシがいたのです。(@_@)
棒で脇へ追いやろうとしましたが、マムシは逃げるどころかピンと立てた尻尾を細かく震わせ威嚇し戦闘態勢に。
マムシはビット器官と呼ばれる器官で動物の熱を感知して攻撃してくるので、攻撃すれば的を外すことはないとされています。
倒木の迂回路はないか探したものの無し。(T_T)
やむなくこちらも戦闘態勢に突入。
40年前の熱かった「政治の季節」を思い出しながら、投石と棍棒でマムシをせん滅。



枯葉とよく似た色のマムシに警戒しながら汗だくで標高を上げます。
こんな表示が。
何だべ??
マムシがいることと傾斜がきついことを除けば結構歩きやすい山道。
でも一向に反対側には下りられません。
と言うか登りばかりで下り道になる気配はありません。



こんなにも標高を上げたのに、まだまだ登りが続きます。
一体どうなってんの?



NHKのアンテナがありました。
さっき表示してあったものはこれのことだったようです。
ここで道が行き止まりなら最悪ですが、幸いなことにまだ道は奥に続いています。



「そろそろ下りになるかなあ・・・。」と思いながらさらに標高を上げていくと、巨大な鉄塔が立っている場所へ。
標高がもっとも高い場所のようなのでここから下りのはず。
と、ところが・・・・・・・・・。
道は行き止まりでした。(+o+)
この後、今来た道をトボトボと、時にはスリップして転倒しそうになりながら下りました。



稲葉台まで下り、少し戻って幹線道路へ。
その道からなら大谷駅へはすぐに行けることが分かりましたが、もう「後の祭り」。
気を取り直して山科駅を目指します。
髭茶屋追分で東海道は57次の道と53次の道とが分かれます。
歩いている三条通りは東海道53次のコースになります。
東海道の案内を眺めます。



「三井寺観音堂」と刻まれた石碑。



御神灯には既に青っぽい灯りが。



久々に歩く旧街道。



徳林庵。
背中がかなり曲がったお婆さんがずっと手を合わせていました。
そんなお婆さんの姿を見て、なぜか胸とまぶたが熱くなりました。
時間がないので歩きながらでしたが、「どうかこのお婆さんが、末永く元気で幸せに暮らせますように。」って徳林庵に向けて手を合わせ心で念じました。



山科駅前に到着。
夕刻には用事があります。
急がなくては!



山科の魅力にどっぷりと触れました。
疏水がらみで、山科をもっともっと周ろうと思います。


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