今日は、2回目のノルディックウオーク。
浜大津〜蹴上間を歩きました。
ただ歩くだけではなく、琵琶湖疏水の様々な歴史や遺構を確認しながら歩を進めました。

本日のウオーキング歩数、27,159歩。(うちエクササイズウオーク10,421歩)、消費カロリー884kcal。


2010年5月15日(土)




JR六地蔵駅で降り、地下鉄東西線へ。
御陵(みささぎ)駅で浜大津行きの京阪電車に乗り換えました。
車窓に見える風景は四宮駅付近のもの。



浜大津へ向かう京阪電車の明るい車内。



進行方向にカメラを向けて写真を写したように見えますが、そうではありません。
後ろ向きに進んでいます。
京阪電車の京津(けいしん)線は、車内のシートの向きは変えられないのです。



地下鉄六地蔵駅から、京阪電車の浜大津駅までの運賃は510円。
浜大津から一駅先の三井寺駅へも同じ運賃。
そこでたった一駅ですが浜大津から三井寺駅まで電車に乗ることに。
乗る電車がやってきました。
京阪電車坂本線の近江神宮前行きです。



近江神宮前行きの電車には大勢の高校生が。
車内には高校生のにおいが充満。
深呼吸してパワーを補給・・・、って嘘ですよん。
godzillaは妖怪じゃないっての。(^_^;)
三井寺駅に着くと、浜大津行きの電車が。
それが何と!「竜馬電車」だったんです。



琵琶湖っていいぜよ。



まずは、第一疏水の取水口である松原ヨットクラブ付近へ。



今の京大(当時の三高)ボート部の本拠地があり、風光明美な琵琶湖畔・三保ケ崎にある「われは湖の子」の歌碑。
歌碑は、琵琶湖疏水の第一疏水と第二疏水のちょうど中間地点に位置。
縦2.2m、横3.5mの石に白文字で「われは 湖の子」と刻まれています
ネット上では「現状非公開」とも書かれたりしていますが、出入り自由な小さな公園(緑地)内にあり見学することができます。
歌碑に記されている歌は、もちろん「われは海の子」などではなく、旧制三校寮歌「三高琵琶湖周航の歌」です。



まずは第二疏水の探索。
琵琶湖第二疏水の取水口付近へ。



第二疏水の取水口の導入口。
そして建屋の北側を眺めます。



第二疏水の取水口の導入口をズーム。
水面を泳いで行くわけにはいかないので、デジカメのズーム機能がありがたい限り。



第二疏水の連結トンネルと取水設備付近。



琵琶湖第二疏水取水口を表すネームプレート。



第二疏水は、第一疏水のほぼ倍の流量がある模様。
第一疏水の建設当時はトンネル内の灯りは灯油を使用したカンテラが使われました。
そのカンテラの火が天井からの漏水により頻繁に消えたため、坑内には常に黒煙が充満。
作業を終えた人が鼻をかむと、紙が真っ黒になったそうです。
対してここ第二疏水の建設時には蹴上発電所から送電された電力を利用した電燈が利用されたので、そんなことはありませんでした。
作業効率や安全面を考えると、第二疏水建設は第一疏水と比べて容易だった。
言葉を換えれば、第一疏水の建設は困難を極めた工事だったと言えます。



第二疏水の敷地内にはこんな建物も。



第二疏水近くの石仏群。



飲用を主目的の一つとした第二疏水は、ほぼ全線が隧道かコンクリートの導管。
だから琵琶湖側から取水口を見たら、次に第二疏水の流れを見ることができるのは蹴上。
そんな第二疏水の観察を終えたので、次に第一疏水の探索に移ります。
第一疏水の揚水施設へ。



第一疏水揚水機場の構内。
「琵琶湖第一疏水揚水機場」の文字が刻まれた石碑があります。



第一疏水の取水口と揚水機場構内の建物。



第一疏水沿いの趣ある道から三井寺方向を望む。



水中のごみを除去する装置でしょうか。
滋賀県にあるのに、この施設管理者は京都市上下水道局。



取水口の反対側。
新三保ヶ崎橋の上から揚水機場を眺めます。



大津絵橋の上から見る第一疏水の流れ。



疏水沿いを歩けば歩くほど、疏水や疏水沿いの風景が魅力的に見えてくるのはなぜ?



大津制水門。



ズーム。



大津閘門とそのシステム。



別角度から撮影。
閘門の扉の開閉は手動式でしたが、それでも当時としては閘門を開閉させる技術は世界最新の画期的なものでした。



大津閘門の分流。



大津閘門。
疏水を行き来する舟は、二つの閘門の中に入り水位の調節を受け、京都方面へあるいは琵琶湖方面へと進んで行きました。
同じような施設が、京都の伏見港跡にも残っています。



第一トンネルの入口が見えてきました。



ズーム。



琵琶湖疏水の説明。



水運が盛んだった頃の、第一トンネル入り口付近の風景。
多くの曳舟が係留しています。



第一トンネル入り口。
扁額の文字は分かりにくいですが「氣象萬千(きしょうばんせん) 」。
揮毫者は伊藤博文で文字の意味は「様々に変化する風光は素晴らしい」です。
第一トンネルの長さは2,436m。
この付近では工事中に落盤事故があり65名の作業員が生き埋めに。
でも人力による必死の救出作業で、47時間後に全員無事に救出された。
救助に当たった作業員の中には、手の爪が全てなくなってしまう程の奮闘をした人も。
疏水建設にあたった人達の執念にも近い気迫を感じる逸話です。



三井寺の境内へ。



境内のカエデ。
美しい新緑が目にしみます。
森林浴ができる場所は、常緑・落葉広葉樹林、常緑・落葉針葉樹林の4つがあり、更にそれぞれ人工林か天然林かにも分けられます。
いずれにしても、心理的な効果は違うものの、心身にはとってもいいものだろうなって思います。
ウオークの楽しみの一つが、その森林浴ができることなのです。



有料ゾーンと無料ゾーンとの「結界」。
私は妻と行動を共にしていない時には原則として有料ゾーンには入りません。
だから三井寺の有料ゾーンにも入りません。
私が自分の好きなことをしている時でも、妻はパートの勤務や家事で忙しくしています。
だから私は休日の行動では交通費と食費といった最低限の支出にとどめ、あえて必要でない有料ゾーンの利用はしないと決めているのです。



三井寺をあとにして歩を進めます
長等神社前通過。



石造小関越道標。
有形民俗文化財です



等正寺(とうしょうじ)にお参り。
ここ等正寺は、蓮如上人の聖跡なのです。
お参りして、お手洗いを借用し外に出ると、小関越えの車で道が混雑、と言うか対向車とすれ違えない狭い道なので車が立ち往生していました。
いた仕方なく、しばし任意の交通整理をしました。



等正寺前の車がなくなったので、ウオーク再開。
細い道を通り抜けると、小関越えの広い道へ。



不法投棄。
「原因者調査中」と記されていますが、それがいまだに継続中であることを念じます。
犯人が早く特定されますように・・・・・。



小関越えの坂を登り切り、喜一堂へ。



喜一堂を前に見た少し右側に登り道があります。
今日はその道を上がります。



目的地の鉄塔に到着。
強烈な上り坂だったので息切れしました。



鉄塔。
この鉄塔の北東側斜面には、疏水建設の際に測量の基準とした「測量標石」があります。
草に覆われた場所で、しかも「鉄塔の北東側斜面」との大雑把な位置しか分からない「測量標石」を探し始めました。
しかし、とげがある植物なども多く足場も不安定。
15分程探しましたが見つからず、結局見つけることを断念。
でもワラビが多く生えていることが分かったので、ワラビ採りを開始。



「標石もあったらいいな。」と心の片隅で考えながらもワラビ採りに熱中。
とげがある低木が生える辺りから杉林の中をふと見ると、何やら構造物が!!



第一疏水建設の際に測量の基準とした「測量標石」をついに発見。
この標石の真下を第一疏水が流れているのです。



収穫したワラビを標石の上に乗せ、しばしの休憩。
ワラビは明日の昼ごはんのおかずにしようっと。



標石を確認したので、鉄塔から喜一堂まで戻りウオーク再開。
小関越えを下ります。
付近は上水施設の工事中。



第一竪坑へ。
第一竪坑(シャフト)は深さ43.8m掘らねばならないにもかかわらず、作業開始後20m程掘った段階で180リットル/分の湧水が始まりました。
工事は中断し、排水作業さえもポンプ故障で中断。ロンドンに発注した大型ポンプの到着で排水工事が、ようやく再開。
この第一竪坑の工事は極めて困難な工事で、技師6名が落下して殉職するなど多くの犠牲者を出した末にようやく完成したもの。
工期を短縮するため、ここに竪坑を掘り、琵琶湖側と山科側からだけでなくこの位置からも琵琶湖側と山科側それぞれに掘り進んでいったのです。
この第一竪坑は、日本初の掘削用竪型トンネル。



当時の姿を今に残し、ほぼ完全な姿で現存する第一竪坑の周辺は立ち入り禁止。
それはおそらく、「マムシ注意」の注意書きにあるような蛇の危険があるゆえかと。
それと管理上のことでしょうね。
少しだけ竪坑に近づいてみました。



小関越えを下り終わり、歩いてきた道を振り返って見ます。
小関越えは道幅から考え、等正寺付近と、そして喜一堂があった峠からここまでとが旧道である可能性が濃厚。



西大津バイパス下を通過。
工事中でした。



大津市藤尾奥町12にある第二竪坑。
道路からは見えないため、散々探し回りました。
探した結果、第二竪坑がある場所はほぼ特定できたものの、第二竪坑は見えません。
民家の敷地に入らないと見えない模様。
偶然にも家から出てきた地元の人に正確な場所を教えてもらい、そして「民家のガレージに入ると見えますよ。」との言葉で何とかこの第二竪坑を見ることができました。
竪坑から湯気が出ているようですが、カメラのレンズの曇りで白く写っている部分が見えているだけ。



日本初の通風用竪坑がこの第二竪坑。
第一竪坑に比べてかなり小ぶり。
深さも第一竪坑のおよそ半分の22.5m。
第一トンネルに送風機を新設するより安価だったたため計画され、そして建設されたのがこの第二竪坑。
その工事は極めて順調に進み、湧水もなく工事開始後わずか1ヶ月程で完成。



第二竪坑をあとにして前進。
寂光寺の庭園に石仏が見えてきました。



寂光寺に到着。
境内にある藤尾磨崖仏の説明を読みます。



予約拝観制です。



更に歩き第一トンネルの出口。へ



第一トンネル出口上部の扁額。
揮毫者は山縣有朋(やまがたありとも)で、廓其有容(かくとしてそれいるることあり)と刻まれています。
意味は「疏水をたたえる大地は奥深くひろびろとしている。」。



再び疏水沿いへ。
橋めぐりを開始。
まずは、測水橋へ。



1968年(昭和43年)12月竣工の柳山橋(2号橋)。
橋を渡ると一燈園です。




四宮舟溜まり。
諸羽トンネル東口のこの辺りに、第二疏水建設の際に試験的に造られたトンネル用の鉄筋コンクリート上部のアーチが残っています。
それをこの日見るつもりだったのですが、何とも残念なことに見落としてしまいました。



新諸羽舟溜まり。
ここまで来て、試験トンネルの構造物を見落としたことに気づき引き返しました。
しかし、今日は早く帰らなくてはならないので途中で戻ることを断念。
再び歩を進めます。



母子地蔵近くの疏水沿いの構造物。
これは確か、積み下ろしする荷物が疏水へ落ちないよう、船が着いた時にコンクリートのへこみに仕切り板を通して使ったもの。



舟が流されないようにロープをくくって舟を係留するアンカーも残っていました。
水運で疏水が使われていた時には、荷物を積んだ舟が疏水べりに着くと岸辺は「小さなメリケン波止場」に早変わりしていたのです。



対岸に、疏水に子どもが転落しないよう念じて造られた母子地蔵堂の姿が。
疏水建設時には、舟運の邪魔にもなる安全柵はありませんでした。
うっかりして疏水に転落すると小さな子どもは時には命を失うこともありました。
疏水建設以来、転落して亡くなる子どもが相次いだため、疏水完成から9年後の1903年に、大津から京都や大阪に舟で織物を運ぶ仕事をしていた善兵衛という船頭さんが呼びかけ、付近の住民の協力も得て完成させた地蔵さまです。



2000年(平成12年)6月竣工の安朱橋(4号橋)。
橋を渡ると毘沙門天へ至ります。



5号橋。



疏水と天然河川である安祥寺川が立体交差している、大変珍しい部分。



疏水の橋脚はレンガ造り。
上にはこうして疏水の水が流れています。



そして下には安祥寺川が。
浜大津〜蹴上間で、疏水と天然河川の立体交差はおそらくここだけだと思います。



1954年(昭和29年)8月竣工の洛東橋。橋を渡ると洛東高校です。



安祥寺橋(6号橋)。橋を渡ると安祥寺です



疏水沿いは新緑のトンネル。



手すりがかなり錆びていた7号橋は写さず。
8号橋横を通過。



天智天皇陵付近を速歩。



1983年(昭和58年)1月竣工の正嫡橋。渡ると本圀寺へ行けます。



大正13年2月竣工の大岩橋(9号橋)。
水運を円滑にするため、橋を水面から上げるために築かれた石垣の形が三角形のため「三角橋」とも呼ばれ、疏水に架かる橋の多くがこの形です。
橋の下をよく見ると、人ひとりが通れるほどの幅の通路があるのが分かります。
疏水の流れに逆らって大津側に向かう時には人力を使って舟をロープで引いていましたが、これは舟を引く人達がロープを離すことなく橋の下を通るための工夫なのです。
舟の通行を邪魔しないようにかさ上げされた三角橋でも、もしこの通路がないと橋があるたびにロープをいちいち橋の下を通す作業が必要になってしまいますよね。
細かいところまで計算して造られたことがとってもよく分かります。



明治37年3月竣工の黒岩(10号橋)。(本格橋)
日本初の鉄筋コンクリート製のアーチ橋です。
橋を渡ると栄興寺へ行けます。



第二トンネルの入り口(東口)。



トンネル入り口の扁額。
「仁以山悦智為水歓(じんはやまをもってよろこび、ちはみずのためによろこぶ)」と刻まれています。
揮毫者は井上馨で、文字の意味は「仁者は動かない山によろこび 智者は流れゆく水によろこぶ。」です。



住宅地の中を少し歩いて第二トンネルの出口(西口)へ。



トンネル出口の扁額。
随山到水源(やまにしたがいて、すいげんにいたる)と刻まれています。
揮毫者は西郷従道(さいごうじゅうどう)で、文字の意味は「山に沿って行くと水源にたどりつく。」です。




日ノ岡取水池橋。



京都市上下水道局・新山科浄水場導水トンネル取水池。



日本初の鉄筋コンクリート橋である11号橋。(テスト橋)
明治36年7月竣工です。



橋の南詰には「日本最初の鉄筋コンクリート橋」と刻まれた石碑が。



日本最初の鉄筋コンクリート製の橋は現役。
橋の上から第3トンネル山科側入口(東口)を見ます。
トンネルの長さが850メートルある第3トンネルの向こう側は、もう蹴上。
上部の扁額の揮毫者は松方正義(やまがたありとも)で、「過雨看松色(かうしょうしょくをみる)と刻まれています。
意味は「時雨が過ぎると いちだんと鮮やかな松の緑をみることができる。」。
よく見ると、トンネルの側面に手すりのようなものがあるのが分かると思います。
あれは、ロープを張っていた跡。
水流に逆らって大津側に戻る際には、舟は岸辺を歩く人がロープを引いて引っ張っていました。
でもそんな人達もトンネルの中は歩けませんので、トンネルの中では壁に貼ってあるロープを舟の人が引っ張って進んでいたのです。



「本邦最初鐵筋混凝土橋記念碑」
田邉朔郎氏の文字です。
裏には、明治三十六年七月竣工
     米蘭式鐵筋混凝土橋桁
     工學博士田邊朔郎書之

と刻まれています。



石碑を越えて山道へ。
案内には「きつい上り下りがあります。」と書かれていますが、その言葉通りかなり険しい上りに汗だくでヘロヘロに。(+o+)
京都一周トレイルコースへ出ました。
京都一周トレイルコースは既に全線歩破を果たしましたが、その後、京都市と合併した北の町村に新しいコースができた模様で、そこはまだ歩いていません。



きつい上りの後のきつい下り。
そんな坂を下りきるとコンクリート製の石段が。
階段を下りきると、日向大神宮の境内へでました。
この赤い鳥居の右側を下りてきました。



日向大神宮の外宮と内宮へ行くには、この階段を上ります。
ここの石段を上がってどんどん進んで行くと、天岩戸。
更に進んでから山科側に下りると「たたら遺跡」に行くことができます。
先週の土曜日はその道を歩きました。



ここら一帯を「蹴上」と呼ぶようにもなった事件にもかかわる牛若丸ゆかりの大日如来。
その付近まで下りてきました。



九条山浄水場ポンプ室。
第二疏水の建設に伴い、京都御所へ送水するための「御所水道ポンプ室」として1912年に完成。
大正天皇が疏水を舟で下って視察する計画があったため、疏水に面した側に立派な玄関が設置され、更に豪華な装飾が施された立派な建物となりました。



インクライン舟溜まり跡。



復元されたインクラインの舟。



日向神社をあとに。
急がなくては!
用事があるので、あと1時間余りで家に着いておく必要があります。


素晴らしい琵琶湖疏水。
訪れれば訪れるほど、新たな魅力を感じ、そして新たな知識と新たな疑問が生じます。
今回のウオークで琵琶湖疏水が益々大好きになりました。
お疲れさまでした!



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