今日は、初のノルディックウオーク。
蹴上〜浜大津間を歩きました。

本日のウオーキング歩数、39,810歩。(うちエクササイズウオーク19,913歩)、消費カロリー1,337kcal。


2010年5月8日(土)




自宅を出て宇治川左岸堤防へ。
ヘリコプターが低空で飛んでいました。



梅雨の季節を間近に控え、水防訓練が行われているようです。



地下鉄で蹴上へ着き地上へ。
第二疏水の水を利用して発電が始まった第二期蹴上発電所の建物が見えています。
蹴上発電所は、日本で最初の商用発電所。
第一疏水の水を利用した第一期疏水発電所は、第二発電所の稼働を待って廃止され建物も撤去されました。
対してこの第二期蹴上発電所は、現在の蹴上発電所が稼働してからは廃止されたものの、建物は当時のままです。
ただし内部は、戦後の一時期に京都大学が放射線研究施設として使っていたため、発電所当時の姿とは大きく変わっているようです。
この建物は一般公開されていないので、内部を見ることは残念ながらできません。



「ねじりまんぽ」へ。



「ねじりまんぽ」内部。
この「ねじりまんぽ」はインクライン(傾斜鉄道)のトンネルです。
インクラインに対してトンネルを直角に造ることが不可能だったため、トンネルの強度を増すためにレンガがこのように積まれました。
天井部分のレンガがインクラインに対して直角に交わるように積まれたため、トンネル内部のレンガはらせん状になっています。



付近の案内板では、ここ「ねじりまんぽ」を「陽気発処(ねじりまんぽ)」と表現していますが、確かに何とも不思議な空間。



インクライン跡へ。



蹴上疏水公園へ。
ねじりまんぽを造り、琵琶湖疏水やインクライン、それに疏水の水を利用した発電所などの設計も行った田辺朔郎氏の像が。



モーター音とゴトゴトする音が。
何かと思ったら、疏水の水から取り出した水草を排出するベルトコンベアの音でした。



蹴上発電所への配管。



疏水分線。



第二疏水の水。
船運なども目的とされた第一疏水と異なり浄水の供給を目的とした第二疏水は、琵琶湖からほとんどのコースが暗渠かコンクリートの導管を通ってここ蹴上まで流れてきます。
その第一疏水と第二疏水の水は、ここ蹴上でいっしょになります。



琵琶湖疏水は史跡に指定されています。
左下の地図には「ねじりまんぽ」が「陽気発処(ねじりまんぽ)」と書かれています。
また実際、ねじりまんぽの北側入口の上には「陽気発処」と刻まれた古い石の額があります。



とっても立派な合流トンネルの入り口。



疏水公園にある山ノ内浄水場導水管。
ダクタイル鋳鉄管で、強度と耐久性があるためほとんどの水道管はこのダクタイル鋳鉄管が使われています。
ちなみに、この山ノ内浄水場導水管は直径が1.65メートルもあります。



復元されたインクラインの船。
ここの一角は工事中で、この舟も新しくなった模様。



疎水工事の犠牲者の慰霊碑でしょうか。



牛若丸ゆかりの大日如来。
この付近で、奥州へ金売り吉次と共に向かう牛若丸に、馬に乗った9人の武士が泥水をかけてしまいます。
しかもその武士が平家の者だと知った牛若丸は激怒。
平家の侍を全員斬り殺してしまいます。



9人の平家の武士を切り殺した後、冷静になった牛若丸はその行為を深く反省。
切り殺した侍の数と同じ9体の石仏を造ります。
しかしその後 石仏は散逸し、今でも残るのはこの1体のみ。
山科には、その際に牛若が刀の血を洗った「血洗い池」が今でも京都薬科大学の校内に残っています。
そして、その付近の地名は何と「血洗い町」。
その「血洗い町」という地名は「不動屋さん泣かせだ」と新聞で読んだ記憶があります。地名が血洗い町だと不動産が売れないからです。不動屋さんは血洗い町の物件案内の際、「血洗い町」という地名の前に「歴史的に伝わる話に由来する地名」との注釈をつけています。
この地の蹴上という地名は、平家の武士が乗った馬が泥を蹴上げたことに由来するとされています。



インクラインの台車に乗っている舟は、やはり新しく造り直された模様。



インクラインが稼働していた時代の雰囲気を濃厚に残す舟溜まり場跡。



大神宮橋へ。



橋の上からの眺め。



疏水施設の向こうには、京都市蹴上浄水場のツツジの群生が見えています。
蹴上浄水場のツツジは、毎年GWの土日に一般公開されています。



九条山浄水場ポンプ室。
第二疏水の建設に伴い、京都御所へ送水するための「御所水道ポンプ室」として1912年に完成。
大正天皇が疏水を舟で下って視察する計画があったため、疏水に面した側に立派な玄関が設置され、更に豪華な装飾が施された立派な建物となりました。



日向(ひむかい)大神宮へ向かいます。
こんなものが。



懐古庵の「迎賓閣」です。
ショートスティやお茶会など、様々な用途で使用可能のようです。



日向大神宮の説明。



境内へ。



外宮。
日向大神宮には「外宮」と「内宮」があります。



外宮より小高い位置には内宮が。



日向大神宮境内から「京都一周トレイル」に入り天の岩戸へ。
京都にも「天の岩戸」があるのです。



天の岩戸。



開運厄除。
入らない手はありません。



入って少し進むと祠が。



祠にお参りし、天の岩戸の出口へ。



汗をかきかき標高を上げます。
山科への分岐点へ。
ここから山科側に下ります。



細い山道を下り、車が通れる広さの道路に出ました。
安祥寺山国有林に入っていく道です。



安祥寺上寺跡の石碑前を通過



「たたら遺跡」へ。
中世の製鉄所跡です。
ここといった決まった場所でなく、ここら辺り一帯がたたら遺跡だそうです。



近くにいた人に「たたら遺跡」のことを尋ねると「石があります」とのこと。
「石碑があるんですか?」と重ねて尋ねると、そうではなく「たたら場」の石があるとのこと。
驚いていると、足元の石をいくつか拾って「これがたたら場の石です。」って。
そして、「どうぞお持ち帰りください。」と言って、石を包むための新聞の折り込み広告までいただきました。
心からお礼を言いました。
たたら場の石。
私は初めて見るものです。



石に金属が溶けたようなものがついています。



たたら遺跡周辺。



たたら遺跡を後にして東進。
それにしても・・・・。
京都にたたら遺跡があり、そしてそこで今でも当時の製鉄した跡を示す石を拾うことができるとに心から驚き、そして感動しました。



カエデの素晴らしい新緑。






山科聖天に到着。






お参りします。



山門脇の提灯には、とっても珍しい大根の絵が。



山科聖天をあとに。
巡礼通称寺って一体なんだろう・・・・・。



毘沙門堂へ。



毘沙門天にお参り



毘沙門堂をあとに。
それにしても・・・・。
疏水沿いウオークのはずなのに、なぜか疏水が見当たらない。(-_-;)



毘沙門戸をあとにして、やっとこさ琵琶湖疏水畔へ到着。
ただ、着いた位置が「母子地蔵」がある安朱橋(4号橋)
今日は日本初の鉄筋コンクリート橋を見るつもりなので、疏水沿いにここから蹴上方向へかなり戻らなくてはなりません。
まあいいけれどね。



数キロメートルほど歩き、天智天皇陵へ到着。
かつてこの付近で、疏水史上初の堤防崩壊があり流れ出た水で山科の街が水につかりました。
その復旧作業には、近くにある京都薬科大学の学生も動員されたそうです。
復習です。
「京都薬科大学」とは、義経ゆかりの「血洗い池」が今でも残っている場所だったですよね。



美しい新緑を眺めながら、速歩のノルディックウオーク。
素敵な時間が過ぎていきます。



アーチ状の山ノ谷橋(第十号橋)。
この橋は日本最初の鉄筋コンクリート橋より少し後で建設されましたが、日本最初の鉄筋コンクリート橋がテスト橋だったのに対しここ山ノ谷橋は鉄筋コンクリート製アーチ型の本格的な橋として建設されました。



長さ124メートルの第2トンネル。
このトンネルのむこう側に日本最初の鉄筋コンクリート橋があります。



住宅の中を少し歩き第2トンネルの反対側へ。



日ノ岡第十一号橋。
日本最初の鉄筋コンクリート橋(テスト橋)です。
橋に使う鉄筋が用意できず、インクラインの線路が鉄筋代わりに使われたそうです。



「日本最初の鉄筋コンクリート橋」と刻まれています。



日本初の鉄筋コンクリート橋を渡ります。



橋を渡ると石碑があり、「本邦最初鉄筋混凝土橋」と田邉朔郎氏の字で記されています。



日ノ岡第十一号橋を臨む
橋の向こうに見えるトンネルは長さが850メートルある第3トンネル。
トンネルの向こう側は蹴上疏水公園です。
かなり戻ってきてしまったことになります。



歴史のロマンを感じる風景。



本圀寺に寄ってみることにします。



開運門(通称「赤門)をくぐります。



境内では色んなものが黄金色に輝いています。



この鐘は豊臣秀吉の姉である村雲瑞龍院氏の寄進のもの。
水戸黄門で有名な水戸光圀公の「光圀」という名前は、ここ大光山光圀から水戸徳川に「光」と「圀」という字が贈られ、その字を使って「光圀」と名乗ったとされています。



鐘の下には「くみょうさま」が祀ってあります。
「くみょうさま」とは鬼子母神十羅刹女の代表の神で、お釈迦様の前で「困っている人を必ず助ける」と誓いを立てた神様。



九頭龍銭洗弁財天。



お参り。









境内が金ぴかなのは、こんな理由だからのようです。(+o+)
ノーコメントってことで。



先ほど疎水に着いた地点まで戻ってきました。
橋のたもとに、疎水に転落した人を救助するために救命用具が備えられていました。



母子地蔵尊。
疏水が完成した当時は柵などの安全設備がなく、疏水に落ちて命を落とす子どもがいました。
それを憂い、子どもを守るために造られたのがこの母子地蔵。



母子地蔵の説明。



雄松(近江舞子)の石を使って彫られた母子地蔵尊。
疏水転落による子どもの犠牲を憂う近所の人達二十余名が話し合い建立したもの。
今も子ども達を見守ってくださっています。



琵琶湖方面へ歩を進めます。
長さ2,436メートルの第一トンネルが見えてきました。
このトンネルの向こう側はもう琵琶湖。



疏水が隧道になったので、もう疏水沿いは歩けません。
小関越えの道に入ります。
隧道になった第一疏水は、この先から小関越え進行方向よりやや右側に延びていきます。



小関越えの上りの途中で、進行方向右側に第1トンネル竪坑を発見。
この竪坑は、日本初の掘削用竪坑。
今しがた通り過ぎた藤尾奥町には、これまた日本初の通風用竪坑が現役で存在。



小関越えを上り終え、下りにかかります。
喜一堂へ。
大津へ通じる道路の拡張工事の際、地中からお地蔵さまが掘り出されました。
そのお地蔵さまはここに安置され、その後数千人の人の寄進によりここ喜一堂が完成しました。



小関越えを下り終えました。
石造小関越道標。(右側)
有形民俗文化財です。



道標の説明。



長等神社前へ。



楼門横には仁王でなくこんなものが。



三井寺前へ



第1トンネルの琵琶湖側へ。
再び疏水が見えてきました。




第1トンネルに入っていく琵琶湖の水。
結構速い流れです。



第一疏水の取水口付近。



ついに琵琶湖に至りました



琵琶湖第一疏水の取水口付近は入り江になっており、松原ヨットクラブとして利用されています。
ビアンカがちょうど出港したようです。
ビアンカ、行ってらっしゃ〜い。
気をつけてね〜。(@^^)/~~~



湖岸沿いに、ミシガンが停泊している浜大津港の中心部を目指します。



琵琶湖の水に直接触れることが容易にできる場所。
琵琶湖の今の水位は、ここに来ると一目瞭然です。



ミシガン発見。



まだ明るいけれどもうライトが点灯している、ミシガンのブリッジ付近をズーム。



船着き場。
ビアンカは先ほど出港していきました。
「うみのこ」も、どこかに出かけているようで不在。



湖岸を散策。
「megumi」が停泊中。
初めて見る船です。



消防艇にご挨拶。
さて帰路に。


初のノルディックウオークは成功裡に終わりました。
膝や腰の負担が少ない分、腕など上半身が疲れましたがそれだけ上半身が鍛えられるってこと。
今後の中距離以上のウオークでは、ノルディックウオークを積極的に行っていこうと思います。




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