今日は、中山道ウオークの2回目。
関ヶ原を起点に揖斐川まで歩きました。

本日のウオーキング歩数、39,806歩。(うちエクササイズウオーク23,631歩)、消費カロリー1,359kcal。


2009年10月10日(土)




米原で乗り換え東海道線で関ヶ原駅を目指します。
車窓から、久しぶりに伊吹山を近くで見ます。



関ヶ原駅着。
駅構内には鉄道唱歌の碑が。



駅の外へ。
駅は無人ですが、駅前には観光案内所があり何人かの人が外に出て「案内パンフは要りませんか?」と声をかけていました。
人も結構多かったので「なぜかな?」と思っていたら、10月17日(土)・19日(日)の二日間にわたって「関ケ原合戦祭り2009(関ケ原ふれあい21)」が開催されるので、そのプレで賑わっていたようです。
今日の気圧配置は西高東低の冬型。
時おり雨が急にザーっと降ってきたりするあいにくの天気。



関ヶ原の脇本陣跡。



脇本陣跡の説明。
ここから少し離れたところには本陣跡があるはずなんですが見つけられませんでした。



脇本陣跡近くにある旅籠「枡屋」。



晴れてきました。
中山道ウオークを開始。
しばらくは此の国道21号線を歩きます。
時刻はもう午後1時近くに。
自宅でおにぎりを作ってきたので、関ヶ原駅前にコンビニがあればそこでカップ麺を買っておにぎりと共に食べようと思っていたのですが、コンビニはありませんでした。
時間ももったいないので、国道を歩きながらおにぎりを食べます。
この先で中山道は国道21号線から離れます。



路傍の石地蔵。
手を合わせます。



一ツ軒(ひとつや)の交差点で、中山道は国道と再び合流。



一ツ軒の交差点にある陸橋。
「美濃路」の言葉に遠くに来たことを実感。



いったん国道に出ましたが、一ツ軒の交差点にある陸橋の所で再び国道と離れます。



中山道の松並木。
昔は松並木でなく「並び松」と呼んでいたとか。



日本海側にある原発から電気を送っていると思われる送電線。
原発の廃棄物をどうするのかということを、そろそろ真剣に論議しなくてはなりません。
「どうしようもない」のなら、原発依存体質を解消する方向で研究開発を進めなくては。



六部地蔵を発見。



六部地蔵の説明。



中山道が天然記念物?
ちと解せませんが・・・・。



松並木がですか。
なら分かります。



天然記念物である中山道の松並木。



垂井宿へ。



日守西交差点へ。
ここで再び国道21号線を横切ります。



垂井一里塚。



一里塚の説明。



一里塚の横に「日守茶屋」が。
昭和の初めころまで利用されていたようです。



日守茶屋。
今は鍵かかけられているので中には入れません。



再び国道21号線と交差。
陸橋を渡って国道を横断します。



松島稲荷神社がありました。
本社は伏見稲荷とのことですので、ご挨拶するために寄ってみることに。



林立する鳥居。
ほとんどの鳥居が木製の伏見稲荷大社と違って、ここ松島稲荷では一番手前の1本が木製で あとはすべて金属製。



お参りします。



分かれ道がありました。
一瞬どっちに行けばいいのか分からなくなりましたが、よく観察すると右側の道に次の目的地である「垂井宿・西の見付け」らしきものが見えていました。
だからここを右です。



「垂井宿・西の見付け」の説明。



安藤広重が描いた垂井宿・西見附から見た西側の風景。






本龍寺。
松尾芭蕉の句碑があるので有名。



ここ本龍寺の山門や書院の玄関は、脇本陣から移築したものだとされています。



垂井の商家の説明。



当時の建物が今もこうして残っています。



旅籠跡。
天ぷらや一品料理の店として今も営業中。



南宮神社鳥居がある交差点の風景。
この辺りに「垂井の泉」があるはずなので探したんですが分かりませんでした。
垂井の泉は枯れることがない清水で、垂井という地名は、その垂井の泉から生まれたとされています。



歩を進めます。



本陣跡へ。
石碑と説明があるだけで、本陣跡の面影は残っていません。



問屋跡。
ここにはまだ建物が残っています。



旅籠・亀丸屋。
二階には鉄砲窓が今も残っています。



亀丸屋の説明。



この旅籠・亀丸屋は今も営業を続けています。
こんなところに泊ったら楽しいだろうなあ・・・・・。



素晴らしい旧街道ウオーク。
こんな旧街道の風景を眺めていると、「旧街道ウオークは私の生涯の趣味になるだろうな」って感じてきます。



相川へ。



暴れ川の相川には橋がなく、人足渡しが行われていました。



相川を渡り少し進んだところにある垂井追分(大垣)道標。



道標の説明。



道標。



道標から少し進むと、また稲荷神社がありました。



最高の天気になってきました。
熱いので長袖トレーナーを脱ぎ半そでTシャツ1枚になって歩きます。



祭礼を告げる旗。
かつて存在した新左翼のML同盟のヘルメットと同じ色彩です。



一里塚跡の碑



一里塚跡。



左手から伸びてきた道路を横切り更に直進します。



青墓宿(あおはかのしゅく)碑。



路傍の石仏。



祭礼を告げる大のぼり。



如来寺。



如来寺の説明。



山の上半分ほどが削られた山があり、その近くに石灰工場がありました。



石灰を運ぶためのタンク車。
今まで「石灰はどんな方法で運ぶんだろう?」なんて考えたことはありませんでした。
石灰はこうしてタンク車で運ぶんですね。



中山道休憩処。
公園になっています。
のぞいてみましたが休憩はしません。
私は行動を開始したら行動終了までは原則的に休憩は取らない主義。



兜塚へ。
兜塚の説明。



兜塚。



どうやらもう赤坂宿に入ったようです。






赤坂宿の脇本陣跡。



本陣跡へ。



本陣の説明。



昔の赤坂宿周辺の様子。



JR美濃赤坂線の踏切を越えます。



赤坂港跡。
川を交通の手段としていた1900年初期ごろ、川港の赤坂港には500艘を超える船が往来したといわれます。
この辺りは、古くから石灰や大理石産業が盛んで賑わっていたのです。



赤坂港跡の石碑。



赤坂港の常夜灯と思われるもの。



ここで進路を左にとります。



池尻一里塚跡。



左側から延びてきた道路と合流。



養老鉄道・東赤坂駅へ。
養老鉄道というのは、かつての近鉄養老線のことなんでしょうね。



東赤坂駅。
無人駅です。



中山道が大きく曲がっている角にあった薬師如来像。



傾く夕日に照らされる稲穂。
日本の実りの秋の素晴らしさを実感。



日没。
まだ揖斐川に着きません。
しかもライトなし。(T_T)



薄暗くなってきました。



大きいだけでなくかなりの機能を備えていると思われる半鐘。
大規模災害でデジタルが全てダメになった時に活躍するのは、おそらくこうしたアナログ装置だろうなと思えてきます。



暗くなってから道が分からなくなりました。
最も悪いパターン。
揖斐川呂久渡船場跡がありました。

でもここが何かが分かりません。



呂久の渡しの説明。



呂久の渡し跡



集落がありました
この集落を抜けた先が揖斐川でした。
揖斐川の堤防は大きなトラックがビュンビュンと通る超危険地帯。
ライトなしで何とか歩こうと思いましたが、川を渡る橋を探すも見つからず。
ライトなしで大型トラックが高速で行きかう道路を歩くという、とっても危険な時間が過ぎていきます。
で結局、川を渡る橋を探すことを断念。
最寄りの駅へ向かうことにします。
でも「最寄りの駅」ってどこなんだろう・・・・・・。



提灯があった集落まで戻ると、幸いなことにちょうど前から人が歩いてきた。
私がここにいる理由を話した上で、「ここから一番近い電車の駅はどこですか?」と尋ねると、「大垣駅か岐阜駅ですね。でも暗いから道がとっても分かりにくいですよ。駅まで送ってあげますわ。」と。
いくら遠くても駅まで歩くつもりだったので固辞したのですが、「いや。今家から車のキーを持って来るからここで待ってて。」って言い残してその人は自宅へ。
お言葉に甘えて待っていると、その人はすぐに戻ってきて駅まで送ってくれた。
人情に感謝しつつ、車内で、今日見た立派な神社の「のぼり」の話をすると、「若でもい人は もう協力できない」って言ってできなくなりつつあるんですよ。」ってことだった。
良い風習はできるだけ長く続くといいんだけどなあ・・・・・・。
駅に着き、送ってくださった方に心からの感謝を述べて大垣駅構内へ。
「樽見鉄道」とは初めて知った名前。
さて帰ろうっと。




2回目の中山道ウオーク。
関ヶ原〜揖斐川まで半日で歩きました。
本当は岐阜駅まで歩くつもりだったんですが、午後からの行動なので揖斐川に着いた時点ですでに暗かったので、揖斐川から20km程離れた岐阜駅まで歩くのは結局無理でした。
それにしても・・・・・・・、中山道はとっても魅力的です。



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